第一章 忘却の罪




Chapter.5

 

 さて、仲直りもして後は椿の家に行くだけ。
 だった香奈達だが、すぐに出鼻をくじかれた。
 というのも、美鈴が今日日直だったにも関わらず日誌を出し忘れたから。
 しかも黒板消しも日直の仕事だが、それも忘れたという。
「馬鹿じゃないのっ」
「馬鹿って言わないでよ!」
 梓の言葉に美鈴が可愛らしい顔を赤く染める。
「普通ミステリー小説とかだったら、ここで何事もなく進むんだろうね~」
「現実はこんなもんよ」
 だって、まだ十二歳の子供なんだから。
「自分の失敗を棚上げするんじゃないっ」
「誰だってあるでしょうがこんな事っ!」
 確かにあるが、椿の命が危ないこの状況での失敗はかなり痛い。
 けれど、ここでやらずに帰ったら、後日担任から怒られる。
「ったく! 黒板消しは私がやるから、美鈴は日誌書き上げておいてっ」
「う~~」
「ああもう! 今からじゃ十分後の帰りのバスも間に合わないしっ! 香奈と理佳は次のバス時間をチェックしてっ」
「待ってもらうってのは?」
「他の人達から大ブーイングになるわよ」
 幸いな事に帰りのバスは、ある程度の本数が出ている。
 というのも、一年生から三年生まで授業時間が違う場合があるからだ。
 まあ――本数にも限りはあるが。
 そうして、教室に日誌を取りに戻った美鈴と共に梓も走り去っていった。
「バスの時間確認だよね」
「そそそ、そうだね」
 二人で渡り廊下の掲示板へと歩き出した。
「……香奈ちゃん」
 歩き出して一分と立たずに理佳が口を開いた。
「ん~?」
「あ、ああ、ありがとうね」
「何が~?」
「だ、だだ、だから、梓ちゃんと仲直りしてくれて」
 眼鏡の下にある嬉しそうな瞳に、香奈がポリポリと頬をかく。
「御礼を言われる事かな?」
「も、もも、もちろんですっ」
 理佳が背中中央まである三つ編みの髪を揺らしながら、一生懸命に頷いた。
「でも、殆どは自分の為だし」
「そ、そそ、それでもです! ……梓ちゃんも、きき、気にしてたから」
「理佳?」
 視線を下に落とした理佳に香奈は気付いた。
「きき、きに、してたの。ずっと……落ち込んで……」
 理佳は思い出す。
 昨日のことを……。
 ずっと、抱えていた思いがついポロリと出たその瞬間を。
『……もう……香奈達とも……これで終わりになるわね』
 小さな呟きだったが、理佳は確かに聞いた。
 そしてその顔によぎった哀しげな表情を確かに見た。
「凄く……気にしてたの」
「……」
「でも、あ、梓ちゃん、その、気が強くて」
 あそこまで拗れたら、絶対に自分から謝れない。
 いや、そもそも梓が自分から謝る事はない。
 どんなに後悔しても、どんなに苦しんでも高すぎるプライドが邪魔をする。
 そうしてまた、後悔するのだ。
 梓はそうやって、いつも大切なものを失ってきた。
 両親も、友人も、そして――。
「だ、だだ、だから、ありがとう」
 いつもクラスの中心に居た梓。
 友人だって多い。
 でも、その友人達の顔触れは一定期間毎に入れ替わっていた。
 ずっと友達でいるのは理佳と――香奈、美鈴、椿ぐらいだ。
 しかも美鈴は何度も拗れる仲を香奈が引き留めている感じで、椿は流されるままな所がある。
「その意味で言うと、理佳ぐらいか」
「か、かか、香奈ちゃんもだよ」
 オドオドとしつつも、強い口調で理佳が言う。
「そうかな~」
「そうだよ! だ、だだ、だからありがとう、梓ちゃんと仲直り、してくれて」
「……」
 嬉しそうに微笑む理佳は、本当に梓の事を心配していたのが分かった。
「まあ……理佳が心配するのも分かるか。梓もなんだか何時もと様子が違ったし」
「っ……」
 ハッとした理佳の様子に、香奈は気付かず言葉を続けた。
「なんていうか……いつもより怒りの沸点が低くて……なんか元々機嫌が悪かった所に油でも注いだような感じ」
 前にも……似たような事があった気がするのだが、思い出せなかった。
「まあ……私の気のせいかな~っていう気もするけど」
「……香奈ちゃんの言うとおりだよ」
「理佳?」
「……梓ちゃん……その、今週の月曜日に、理人(りひと)君と何かあったみたいなの」
「……は?」
 理人って、あの理人か?
「うん。その、理人」
 本名を篠宮理人。
 篠宮財閥の御曹司で、香奈達とは同じ学校に通う同級生だった。
 篠宮財閥は、香奈の母の実家――神有財閥に比べると小さい財閥だが、元々は旧華族という歴史ある名家として政財界でもその名を馳せていた。
 理人はそこの本家子息だった。
「でも、なんで? 理人の通う学校はあそこでしょ?」
 桜子と共にあの超名門エスカレーター校に合格し、今年の春からそちらに通っている。
 おかげで、何人の少女達が泣いたか分からない。
 美少女コンテスト荒しだった母にうり二つのクールビューティー。
 加えて、文武両道、品行方正と三拍子揃い。
 物腰は柔らかく紳士的という理想の王子様を描いた様な美少年となれば、異性は誰も放っておかない。
 それこそ、まだ十二歳だというのに、社交界では彼の花嫁の座を巡って争いが起きているらしい。
 名家の令嬢達の間では「結婚したい将来有望な男ベスト5」というものがあり、第一位は香奈の従兄弟である柚緋で、第二位が理人だった。
 因みに、社交界の子息の間で「結婚したい女性ベスト5」のトップは桜子である。
 と、なにげに同級生が男女ともにランクインしているが、実は男の方は残りの三人も香奈達は知っていた。
 それこそ、第一位と第二位に負けない素晴らしい腹黒鬼畜どもである。
 特に第三位は、理佳にとっては恐怖の対象でしかないが。
 そんな理佳は、香奈の疑問にオドオドした物言いで答えた。
「だ、だから、社交界のパーティー、でで」
「また喧嘩?」
 子供達にとっては将来の結婚相手探しでもあるパーティーで喧嘩をする者などまず居ない。
 表ではにっこり笑い、裏で誹謗中傷が基本。
 しかし梓と理人に関しては違った。
 幼馴染みでもある二人は、場所や状況を関係なく喧嘩する。
 といっても、実際には梓が一方的に怒るというものだが。
「く、詳しい事は、わからない」
「いや、あの二人なら有り得るよ」
 特に今年の春先は酷かった。
 梓が超名門校に落ち、理人は受かった。
 その事でも酷くやりあったらしく、梓の怒りは暫く収まらなかった。
『理人なんて大嫌いよ!』
 その後、梓は徹底的に理人を拒絶し目もあわせなかった。
 理人は理人で梓の怒りに慣れているのか、完全に放っておきそのまま卒業となった。
 それ以降会ったという話は聞かなかったが、考えてみれば社交界のパーティーでは顔を合わせていてもおかしくない。
「梓の家もお金持だからね~」
 といっても、社交界での梓の家の評判は良くない。
 というのは、梓の家はいわゆる成り上がりだからだ。
 古い家柄を尊ぶ者達にとっては、ポッと出の成金として蔑む対象でしかない。
 おかげで梓は成金の娘と馬鹿にされる事も多く、それが梓の勝ち気な性格を助長させたといってもいい。
 元々気が強かったが、馬鹿にされた事で負けん気が刺激されていったのだ。
 だが、理佳からすれば梓がそこまで馬鹿にされるのは、理人が原因だとみている。
 理人は社交界の高嶺の花だ。
 そんな彼の側に居る梓は、他の令嬢達やその親からすれば邪魔な存在でしかない。
 また、理人の親族の中でも古き血筋を尊ぶ者達の中では、成金の娘である梓が必要以上に次期当主に近付くのを激しく嫌っている者達も居る。
 梓の家の事を気にしないのは、篠宮本家の人間ぐらいだろう。
「けど、理人との間の事なら私達が口を出さない方が良いよね」
「……う、うん」
 理人がらみで梓が怒っている場合はとにかく傍観。
 下手に手を出せば、桜子の事でライバル心を剥き出しにしている時よりも厄介な事になる。
「人間関係って難しいよね~」
「う、うん」
 と、後ろから近付いてくる足音に香奈と理佳は口をつぐんだ。
 梓と美鈴の声が聞こえてくる。
「なんで日誌一つでそんなに時間がかかるのよっ」
「丁寧に書いてるからよっ!」
「どうせ余計な事ばかり書いてるんでしょう?!」
「必要最低限の事しか書いてないって!」
「ならあの猫のイラストは何っ」
 日誌一つでどうしてそこまで言い争えるのか。
 不思議で仕方ない香奈だった。


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