第一章 忘却の罪




Chapter.7

 

 時はしばし戻るーー。
「梓ーー泣かないでよ」
 香奈は地面に仰向けに転がったまま、自分のお腹の上に乗っかったままの梓に告げた。
 空腹を抱え、美鈴に連れられて梓達を迎えに行った。
 そしてあと少しでショッピング街に辿り着くという所で、向こうから走ってきた梓と正面衝突した。
 といっても、それまでお腹が空きすぎてフラフラだったから、猛スピードで走ってきた梓を支えられるわけもなく、二人で転がった。
 美鈴はと言えば、理佳を追い掛けるとか言い出してさっさと居なくなってしまい、香奈は梓と共に残された。
 しかしーー梓は転がったままの体勢から動こうとしない。
 香奈のお腹の上に顔を埋めたまま。
 それから十五分ぐらいこのままだった。
 けれどここは白昼の往来。
 多くの人が行き交うショッピング街の入り口付近。
 周囲の視線が痛すぎた。
 一刻も早く移動しなければと頭の隅で考えるが、体は動かなかった。
 完全にガス欠。
 お腹と背中がくっつきそう。
 そして意識も飛びそう。
 香奈はくらくらとしつつも、梓の頭だけは優しく撫でていた。
 と、その時ーー風が吹き、鼻がその匂いを捉える。
 こんがりと焼けたジューシーな匂い。
 香奈の瞳がキュピキュピンと光る。
 顔だけ動かし、目的のものを見つけた。
 コッペパン!
 紙袋から顔を覗かせるのは、コッペパンにレタスやお肉を挟んだサンドイッチ!!
 もはや香奈に何の迷いもなかった。
 最後の力を振り絞って紙袋に手をやると、そこからコッペパンを取り出し口に含んだ。
 地面に仰向けに寝たままの状態で。
 よりいっそう周囲の注目をひいているが、今度は全く気にならない。
 そのまま、ハムスターのようにばくばくとパンを食べていく。
 その様子に、とりあえず助けるかーーと、遠くから見守っていた通りすがりの者達が一気に引いていく。
 今までも近寄りがたかったが、更に近付きたくなくなった。
 もしゃもしゃもしゃ。
 もぎゅもぎゅもぎゅ。
 一個食べ終わると、二個目に突入する。
「……香奈」
「ふぁ、ふぁふゅはぁ」
 お腹の上にのったまま微動だにしない梓が名を呼んできたので、口にパンを押し込んだまま答えた。
「……私より、パンを選んだわね」
 なんだかとってもオドロオドロシイ声だったが、食欲が全面的に出てしまっている香奈には全く効果はなかった。
「ひょひゅひょおうひょひゅう」
「何言ってるか全然分からないわよ!」
 と、ガバリと顔を上げた梓だが、後頭部に強い衝撃を受けて再び香奈のお腹に突っ伏した。
「な、なにするのよ」
「もう少し突っ伏してて」
 パンを口から離した香奈の言葉に梓が目を見開く。
「な……」
 と、香奈がガバリと起き上がり梓がバランスを崩す。
 しかし後頭部に添えられた手の御陰で、後ろに転がる事はなかった。
「とりあえず、駅まで戻ろう」
「……」
「ああ、理佳も来たみたい」
 その言葉に、顔を上げようとしたが、やはり香奈に阻止されて出来なかった。
「って、理佳も凄い顔」
「か、かか、香奈ちゃ、あ、梓ちゃん」
 泣きながら、それでも香奈と梓の姿にホッとした様に笑う理佳。
「駅まで戻ろう」
「ま、まま、まって」
「理佳?」
 立上がり、梓を抱える香奈に理佳が慌てる。
「美鈴、ちゃん」
「ああ。美鈴なら大丈夫。此処に居なかったら、駅に戻ってるって分かる筈だから」
 梓達を探しに行く時に、もし迷子になったら駅前まで戻ると決めていた。
「で、でで、でも」
 青ざめた顔でガタガタと震える理佳に香奈は眉を顰める。
 昔もこういう顔をした理佳をよく見ていた。
「……もしかして、夕霧に会ったの?」
 と、思ったままに呟いてしまった香奈だが、この後心底後悔する事になる。
 というのも、一気に涙を流し始めた理佳が泣き止まなくなったからだ。
 おかげで、香奈は駅前まで二人を連れて戻るまでの間、大量の好奇心溢れる視線を浴びることとなった。
「とりあえず、ここで休んでて」
 理佳と梓を駅舎のベンチに座らせる。
 すると、そこに美鈴が戻ってきた。
「香奈、ごめん遅れた」
「美鈴」
「って、なんか凄い事になってるね」
 美鈴の言葉に香奈は苦笑すると、梓達から離れた隅っこまで友人を連れて行く。
「理佳は半分私のせい。夕霧の名前出したら泣かれた」
「あ~、仕方ないよ。夕霧とその子分達に追い掛けられたみたいだから」
 追い掛けられた?
「なんで。まだ虐めたりないの?」
 香奈の質問に、美鈴は苦笑した。
 香奈は夕霧が理佳を虐めているのは知っているが、その裏側までは知らない。
 夕霧が今も理佳を追い掛けているのは、虐めたいというよりも理佳を逃がしたくないからだ。
 たぶん自分と夕霧の家族ぐらいしか知らない。
 夕霧が、理佳と初めて出会った時からずっと恋心を抱いている事など。
 虐めも全て、理佳の注意を引くため。
 なのに、理佳は最後の最後で夕霧の手から逃げ出した。
 同じ学校に入ったら最後と言うように、山中中学ーー香奈達の通う学校に入学したのだ。
 夕霧には大ダメージだっただろう。
 当然、中学も同じだと思っていたはずだから。
 理佳の学力からすれば、超名門校こそが相応しい。
 だから、夕霧はあの学校を受験したのだ。
 理佳と同じ学校に行くために。
「で、梓はどうして泣いてるの?」
「わかんない。理佳にも聞いたんだけど、恐怖が強すぎて前後の記憶があやふやだし」
 本屋に母から頼まれたものを取りにいったが時間がかかり、ようやく外に出た時には梓が誰かと話していたが、何故か梓に怒鳴られるようにして呼ばれたかと思えば、梓が走り出して。
 一応文章にはなっているが、誰と会っていたのかとか、詳しい事は分からなかった。
 梓も何も言わない。
 しかしあんな凄い顔をしていて、しかも理佳を放置して走り出すなんて普通ではない。
「涙と鼻水で凄かった」
「香奈……」
「まあーー少し落ち着いた頃だと思うから、聞いてみようか?」
「いや、それはしなくていいよ。何か話したくなったら自分から言うでしょ」
「そっか」
 二人の様子からしても、もう少し黙っておいた方が良い。
「でも……椿の所に一緒に行けるかな?」
「それは……聞いてみた方がいいかも」
 あんな様子の二人だ。
 香奈達から見ても、可哀想なほど震えていた。
 無理はさせない方が良い。
 しかしーー梓達の所に戻りその旨を伝えれば、予想外の答えが出た。
「一緒に行くわ」
「でも」
「いいの。何かしていた方が気が紛れるから」
「わ、わわ、私も」
「それに、私達も居た方が良いでしょう?」
 椿がパニックになった時の為に。
 確かにその通りだった。
 そうして、予定通り四人で行く事になった。





 椿の家に辿り着いた時には、既に午後三時を回っていた。
「ちょっと遅くなっちゃったね」
 そんな事を呟きながら、美鈴がチャイムを鳴らした。
「……」
 何時もならすぐ出てくる筈の椿の母からは何の応答もない。
「聞こえないのかな?」
 今日は椿の母は家に居ると聞いていた。
 もう一度鳴らす。
 しかし応答はない。
「留守かな?」
「う~ん」
 首を傾げる香奈と美鈴を余所に、梓が扉に手を触れた。
 その途端、梓が一気に目を見開く。
「っーー」
「梓?」
「……留守よ」
 ドアノブから手を離し、梓が此方に背を向けたまま告げた。
「は?」
「留守よ。だから帰りましょう」
「留守?」
「帰りましょう」
 梓はひたすら帰ろうと言う。
 だが、なんだか様子がおかしい。
「梓?」
「留守よ、留守。だから帰ろう」
「いや、でももう一度」
 と、美鈴がチャイムに伸ばした手を強く掴まれる。
「あ、梓っ」
「留守って言ってるでしょう!」
「鍵開けた状態で?」
 梓の目が驚愕に見開かれる。
 その瞳には、香奈が扉を開けた光景が映り込んでいた。
「あーー」
 どうして。
 どうして。
 どうしーー。
「ナゼアケタ!」
「は?」
 ギョロリと目玉を動かした梓の顔は、悪鬼そのもので、理佳と美鈴が悲鳴をあげる。
 と、扉の中を覗き込んでいた香奈に向けて手が伸びた。
「ん? これ何?」
 なんか足下に小さな石が転がっているのが見えて手に取った。
 後ろから絶叫が聞こえて来た。
「あぁぁぁぁぁぁぁっ」
「は?」
 振り向けば、梓が頭を抱えて悲鳴を上げている。
 だが、それもつかの間のことで、ふらりとよろめいたかと思えばその場に倒れた。
「梓、近所迷惑だって」
 ゴッキーでもいたのかと首を傾げる。
 と、理佳と美鈴が茫然と立ち尽くしているのが見えた。
「二人とも、梓倒れちゃったけど」
「え、あ」
「あ、ああ、あ」
「とりあえず、中で休ませて貰おうよ」
 その為には、椿の母を呼ばなくては。
 それか、椿本人でもいい。
 一人事情を飲み込めていない香奈は、手に持っていた小石をポケットに入れると、大きく開いた扉から声を上げた。
「すいません~! 神無ですけど、椿ちゃんのお見舞に来ました~」
 と、そこでようやくパタパタと奥から近付いてくる音が聞こえた。
 ほどなく姿を現わしたのは、椿の母だった。
「まあまあ、こんにちわ。どうしたの?」
「椿のお見舞に来ました」
「まあ! それはありがとうね。でも、椿は今体調が悪くて伏せっているのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。だからまた今度来て下さいね」
 椿の母が申し訳なさそうに告げる。
「……少しだけ顔を見るのは駄目ですか?」
 香奈は少し食い下がってみた。
 体調が悪い時に無理はさせたくないとは思う。
 しかし、問題の火曜日まで時間はない。
 せめて、椿の見た犯人と自分達が探し出した被害者が同じかどうかだけでも確かめたかった。
 だが、椿の母は申し訳なさそうに首を横に振る。
「ごめんなさいね。あの子には無理をさせたくないの」
「……そうですか」
 ここまで言われたら仕方が無い。
 無理を言っているのはこちらなのだーー。
 と、そこで梓の事を思い出した。
「すいません。実は友達の梓が気分悪くなったみたいなので、少し休ませて頂けませんか?」
「え?」
「お願いします」
「あ、でも……気分が悪いのなら、家に帰った方が宜しいのでは?」
 穏やかな口調。
 けれど、その中に香奈はあるものを嗅ぎ取った。
「……梓の家までは遠くて、私達だけでは運べません。せめて、家の電話を借りさせてくれませんか? 迎えに来て貰いたいので」
「え、でも少し気分が悪いぐらいでしょう? なら貴方達でも運べるんじゃなくて?」
「……」
 香奈は黙ったまま、椿の母を見つめた。
「どうしても、駄目ですか?」
「ど、どうしてもではないけど」
 しかし言いよどむ姿に、香奈は疑問を抱く。
 絶対に様子がおかしい。
 完全に挙動不審だし、いつもの椿の母では言わないような事をペラペラ言っている。
 もしかして椿に何かあったのだろうか。
 だが、明らかに家に入ってこられてはまずいという雰囲気は妙だ。
 もしや、テレビとかで良くやっているあれだろうか。
 実は強盗が中に居た所に客が来たので家の家人に追い返させようとしているとか。
 で、当然椿が人質になっていて……。
「んなわけないな」
 香奈は自分の考えを打ち消した。
 そんな事がそうそうあってたまるか。
「と、とにかく今日は帰って」
 いつまで経っても帰らない香奈達にしびれを切らしたのか、椿の母が強引に押しだそうとしてくる。
「ちょ、ちょっと」
「いいから帰って! 椿の事は私がきちんと面倒見ますからっ」
 何故こんなに慌てているのか。
 いや、その前にこの人は本当にあの優しい椿の母だろうか。
「別人みたい」
 ポロリと言葉が落ちた時、香奈は確かに見た。
 椿の母の顔に、瞬間的に動揺の色が走ったのを。
「……」
 香奈は決めた。
 椿の母を突き飛ばし、中に入る。
 そのまま椿の部屋へと向かって走った。
「ま、待ちなさい!」
 後ろから慌てて追い掛けてくる声も無視し、椿の部屋の前に辿り着く。
「椿!」
ドアの前で声をかける。
 だが、ドアは開かない。
 仕方ないとドアノブに手をかけると、追いついた椿の母がそれを阻止しようとした。
「何をするの! 警察を呼びますよ!」
「好きにして下さい」
 そう告げ、ドアノブを回す。
「やめなさい! 叩き出すわよ!」
 後ろから羽交い締めにされてドアから引き離される。
「なんて子なのかしら! こんな勝手に人の家に上がり込んで!」
「椿のお母さんの様子が変なので」
「私は何処も変じゃないわ! それより、こんな無礼な事をするなんてとんでもない! もう二度とうちには上がり込まないで下さいねっ」
 振り返れば、悪鬼の様な形相がそこにはあった。
 心底忌々しいと言いたい様な顔に、香奈は考え込む。
 どう考えても、この人は椿の母ではない気がするのだが。
 やはり誰かに脅されていて、そう言わなければならないのだろうか。
「強盗でもいるんですか?」
「はあ?」
 違うらしい。
 心底キョトンとした顔がそれを物語っている。
 となれば、ひっかかるのはあの別人発言。
 確かに動揺が走ったのだ。
「本当に椿のお母さんですか?」
「当たり前よ!」
 そう言った顔には動揺は見られない。
 予想していた質問だからだろうか?
 それともさっきのは見間違い?
「いいからさっさと出て行って!」
「きゃっ!」
 髪の毛が何かにひっかかり、走る痛み。
 反射的に頭を大きく動かした時だった。
「ぶっ!」
「あ」
 椿の母と香奈の身長は頭一個分。
 しかし、羽交い締めにされて足が少し浮き上がっていた事で身長差が埋まったらしい。
 また、椿の母が頭を少し傾けていた事もプラスされ、顔面に香奈の頭が見事にぶつかった。
 背中に密着していた体が離れるのを感じた。
 そのまま、羽交い締めにしていた手が外れ、後ろからバタンと音が聞こえる。
「椿のお母さん?」
「……」
 完全に目を回しているらしい。
 着物の裾が大きくめくれ上がり、白い太股まで露わになっている。
 だがーー。
「誰、これ」
 確かに美人だ。
 長い髪の妖艶な美女。
 けれど、椿の母とは違うーーいや、比べものにならないほど美しい美貌だった。
 しかも、どう見ても椿の母より若い……十六、七ぐらいだ。
「……衝撃で若返った?」
 そんなわけのわからない事を呟いてみる。
 と、叫び声が聞こえて来た。
「章子!」
 二階から此方を見下ろすのはーー。
「……椿のお父さん?」
 と、二階の青年に呟いた瞬間。
「俺はまだ高校生だっ!」
 怒鳴られた。
 しかも、これまた凄まじく端正で凛々しい美貌の青年だから、迫力は倍増した。


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