茶州州牧となった秀麗や悠舜達と共に、新年挨拶と新たな事業の根回しの為に貴陽に
来てから数週間が経過した頃だった。蒼麗の元に、現在茶州に一人滞在中である緑翠から
内密の手紙が届けられた。それも、通常時に使われる緑の料紙ではなく、緊急を知らせる
赤の料紙で。




「蒼麗様、緑翠はなんと?」




手紙を開き、中を読み始めた蒼麗の微かな異変を感じ取った銀河は静かに問いかけた。
それに蒼麗は答える事はせず、唯その手紙を手渡した。自分の口から話すよりも、この方が
銀河にとっては一早く内容を理解できるだろう。銀河がそうして手紙に目を通し始めるのと
同時に、蒼麗はゆっくりと窓へと近付いていった。キイィィと言う軋みの音共に開かれた
窓から、肌を突き刺すような寒風と共に白い綿毛の様なそれが空から降りてくる。
蒼麗は大きく息を吸い込むと、真っ白な息を吐いた。



「ユキギツネ、か」



冬が早く来るとき、水から魔物が来る。緑翠の手紙に記されていた文の中の一つである
それに、蒼麗は自身の住まう世界では有名なその病名を思い出した。
島国の北に住まう狐が齎す、水による感染経路を主とするその病名の名は――


蒼麗の瞳が険しさを増す。



「厄介だわ」



もし、今回茶州で流行るその奇病があの病気と同じならば………その有力な治療法は
一つしかなかった。












目の前で影月の様子が変っていったのを、緑翠は何時ものように冷静な眼差しで
見つめていた。別に、情が無いわけではない。けれど、自分はあまりにも感情の制御に
長けすぎていた。あの方に比べればそうでもなくても、普通の人間にとっては冷たいとも
思わせるほどに。そして、緑翠はそんな冷たさを感じさせる何時もの如く、目の前で
目まぐるしく変っていくそれらを見つめていた。



「また……またあの病が……」



適切な指示を早々と出し、燕青が執務室を出て行った後、料紙を前に影月は震えていた。
そして自身の罪を思い出し、思う。これは、罰なのだろうか――と。
悩み、悩み、その短い間で死ぬほど悩んだ。けれど少しでも時間が惜しいとばかりに、
拳を叩き付けてでも己を律し、黒州州牧へ向けて要請の為の書をしたため始める。
全ては、あの悲劇を繰り返さない為に。それを見て、緑翠は此処に来て初めて笑った。



「ユキギツネによる寄生虫の感染か」



響いてきた美声に、影月は何時の間にか自分の前に緑翠が立っている事に気が付いた。
確か、私用が……と昨日から出かけていた筈だったが。


「緑翠さん?」


「俺の住まう所にも似たような病があるんだ。此方と同じく狐によるものでさ。狐の糞または、
狐の体に含まれるとある寄生虫の卵を経口摂取してしまう事によって寄生虫が体内で
成長していき、発祥させる。但し、此方と違って症状が出るまでにはかなりの時間があるんだ」


「時間?」


「ああ。此方の罹患の時期は秋。その後数ヶ月の潜伏期間を経て発病した。しかし、
俺達の方のそれは10数年の潜伏期間を持つ」


「10数年も……」


「とはいっても、寄生虫に感染しても潜伏されていればわからず、一度発病すればある方法
でしか助からないがな」


緑翠の言葉の最後に、影月は目を見開いた。


「りょ、緑翠さん!!」


「なんだ?」


「助かる方法は、助かる方法を貴方は知っているんですか?!」


「――ああ。でも、教えないさ」


「え?」


「教えなくても、既にその助かる方法は発見されている。あの男によってな」


完全なる医学馬鹿。昨日、黒州の西華村に赴いた際、そこを守る元住人達が楽しそうに、
そして懐かしそうに語った。本当に優しくて、何度騙されても人を信じる事を止めず、世界を愛し、
愛され、最後の最後まで自分達を助けようとしてくれた本当の意味での医者。その男が、
最後に残したそれに、その方法は記されている。



「あ、あの男って……」


「ま、頑張れよ。最後まで諦めなければ……それなりに色々と叶う事もあるはずだ。いっとくが、
奇跡ってのは偶然起きるわけじゃない。そいつのがんばりによって奇跡というなの元が引き
寄せられ、その頑張りと複雑に交じり合って起きる物なんだ」


だから、最後の最後まで抗っていれば、それだけ大きな奇跡の一つでも起きる。
そう言葉の裏に示すそれに、影月は一筋の涙を流した。



「じゃあな」



緑翠は背を向けつつひらひらと手を振りながら室から出て行った。











白い雪がちらほらと降りてくる中、此処――邵可邸の庭に在する木々や草花の精霊達は、
今は冬眠中だというにも関わらず、其々姿を具現化させては苦しげにもんどりうっていた。
その原因は、直隣の屋敷から聞こえてくる実に奇怪意味不明な音色のせい。
吹いている本人は素晴らしいと評する産物でありながらも、聞き手にとっては種族問わずに
大幅な被害を齎す殺人音波にも似たそれに、今にも生命の危機に瀕している邵可邸に
在する薄幸な精霊達は、一様に目の前の人物に哀願のまなざしを向けた。それは、今現在
この邵可邸に居候中の少女――蒼麗。幼い頃から器楽や歌舞の名手と名高い者達の演奏を
見聞きしているお陰で鋭すぎる目耳を有しながらも、不思議かな。今も聞こえてくる超難解な
演奏をバックに平然と庭の構造大改革を推進していた。彼女の耳と神経と脳はどうなって
いるのか。しかし、精霊達は思う。今この場であの音を防げるのは彼女しか居ない――と。


よって、精霊達の一人が土下座せんばかりに蒼麗に頼み込んだ。






お願いです!どうかあの殺人音波をぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおっ






止めてくれと騒ぐは新参者の桜の精霊。この国の王から贈られ、その贈り主と此処の屋敷に
住まう者達の想いを一心に受けて力強く根付いた。そしてようやく初めての冬が訪れて
他の木々同様に来春に向けて冬眠したというのに、この様な凄まじい音で強引に
目覚めさせられるとはっっっっ!!既に連日連夜、しかも長時間聞かされ続け、今や
自分の命は風前の灯。嫌だ。こんな風に人生、いや、精霊生を終えるのは――っ。


目を血走らせ、鼻息荒くその秀麗な顔を近づけて訴えてくる桜の精霊と、その後ろでやはり
似た様な様子で土下座してくる残りの精霊達に、蒼麗は暫く考え込み――ゆっくりと頷いた。
その瞬間、邵可邸の庭には津波の如く歓喜の波が幾重にも訪れ、精霊達の安堵と生への
希望が大地を揺らす。そこまで嬉しいか?とは礼儀正しい蒼麗はつっこまなかったが、
取り合えず約束したからにはこの奇怪なる音の発信者――藍 龍蓮に話を付けに
行かなければならない。蒼麗は、よっこらしょっと立ち上がると、早足で屋敷に入ろうとした。
が、屋敷から10歩ほどの所で目的の青年がその屋敷から出てくる。



「あ、龍蓮様」



「おお、心の友その三」



ふわりと嬉しそうな笑みを浮かべながら優雅な足運びで此方にやって来る。
その派手すぎる衣装がなければ誰もが認める大貴族の青年であろう。それだけが残念である。



「心の友その一から庭の構造大改革を行っていたと聞いたが、もう終わったのか?」



ちょうど今から1年半前。此処に最初に世話になったときに、荒れ果てた庭の整備と大々的な
構造改革を蒼麗は行った。しかし、それから1年半後の今。再び庭は荒れていた。
まあ前よりは幾分かマシだったが、住んでいる人数の割りに敷地が広すぎるお陰で、隅々に
まで手が行き届かず、荒れている所は完全に手を付けられない程となっていた。
よって、これはいかんと蒼麗は再び立ち上がり、秀麗が茶州に帰るまでの間、毎日少しずつ
手をかけていた。そして今日も――けれど、今はそれを置いてでもやるべき事が出来た。
先ほどした精霊達との約束を、原因たる人物が目の前に居る今、果たさなければ。



そう――笛を吹くのを止めて下さい、と。




「龍蓮様、あの――」



「おお、これは素晴らしい大根と蕪と葱だ!」




蒼麗が大きく深呼吸をして口を開いた瞬間、既に龍蓮は自分の後方を歩き、視線の先にある
雪に埋まったそれら三種の野菜に意識を集中させていた。軽く無視された形。けれど、龍蓮に
悪気はないだろう。そして、蒼麗も別に気にしない。ようは目的が果たせればいいのだ。



「龍蓮さん。笛を吹くのをなるべく控えてくれませんか?」


パタパタと後ろを追いかけ、龍蓮に頼み込む。振り向いた龍蓮は3種の野菜を手に、
真剣な顔で言った。


「それは無理だ。私は今、少しでも笛の技術をあげなければならないのだ。それは大勢の
人々の心を癒し、自らの性根を鍛える為にも。故に、練習は一日も欠かす事はできぬのだ」


貴方が笛を吹く度に大勢の人達は精神に以上を来たし、夜も眠れなくなり、発狂しかけて
いるんですが――とは、心優しい蒼麗は一言も口にしなかった。けれど、此処で引くわけには
行かない。龍蓮の言葉に背後で望みを絶たれた精霊達が絶望と悲しみの声を上げる。
このままでは、世を儚んで消滅しかねない。駄目だ。そんな事になれば邵可邸の庭は
全滅だ。精霊達が消えれば、それに宿られし器たる植物はかれ果ててしまう。精霊達は
自然の源。精霊が居ない場所に命は生まれない。故に、精霊達の有無はそこに住まう
生命達にとって重大な死活問題にもなるのだ。今のこの世。人々の中に精霊達の存在は
薄れ、唯一認識されているのは国の初代国王を助けた仙人達ぐらいである。
けれど、人々に認識されようがされまいが、精霊達は居る。仙人達が今もこの国で悠々自適に
生活しているように。そして――精霊達がいるからこそ、大地は富み、水はかれる事無く、
植物は生い茂る。もし、龍蓮の笛の音の噂が広まり、「こんな所にいられないわっ!
なんて事になったら――。それは、国を挙げての大問題へと発展する。
最早、邵可邸だけの問題に留まらない。


蒼麗はクワッと目を見開き、龍蓮の腕を掴み、その場に座らせると、自らも正座して説得を
始めた。そうして半々刻。粘り強く、且つとても丁寧で礼儀正しい蒼麗の説得に、「そうかも」と
龍蓮も8割方納得し、取り合えず邵可邸での演奏は控える事を確約した。蒼麗はほっと
安堵の息をついた。しかし、此処で吹かずとも、別のところで吹けば同じであり、今までも
国の至る所で笛を吹きまくっていた為、そこらの精霊達の精神が垂直効果で消耗している
事は軽くスルーしておく事にする。半人前である蒼麗には、今の所、目の前の事を
どうにかするだけの力しかない。





『有難うございますぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!』





成功を告げる親指を天に向かって突き上げる仕草に、精霊達は泣きながら蒼麗にしがみ
付いてくる。その勢いは、まるで行き倒れかけた馬が人参を見つけて猛突進するが如く。
危うく吹っ飛ばされそうになったが、そんな中、蒼麗はふと目の端に移るそれに気づいた。


スタスタと屋敷に戻っていく龍蓮。けれど、その腕には――





「あ」





さっきは別の事で頭が一杯だった為気がつかなかったが、あれは秀麗が大切に育てていた
大切な野菜達。当然ながら、止める間もなく龍蓮が屋敷に戻って数泊後。
秀麗の絶叫が聞こえてきた。







人の家の野菜をなんだと思ってんのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ








………秀麗の怒りに赤く染まった顔が目に浮かぶようだった。





『おいおい、どうしたんだ一体』



『なんでも大根と蕪と葱を勝手に引っこ抜かれたんだって』



『あ〜〜、後3日もすれば一番美味しい頃だったのにな』



『秀麗お嬢様、可哀想ね。10数年かけて野菜の一番美味しい時期を発見したのに』



『ここんち貧乏だからなぁ〜。紅家直系なのに』




「解ってるなら止めてください」



口々に好き勝手言う精霊達に蒼麗は突っ込んだ。
しかし、その答えは――





『『『『『『自分の身が大事なんで』』』』』』






なんともけんもほろろだった。



当然ながら蒼麗の怒りの声が炸裂したのは言うまでもない。
精霊達は一同に正座をさせられ、こんこんと説教をされる。







――が、それもつかの間。


屋敷から雪を踏みしめる音と共に、蒼麗の名を呼ぶ声によって説教は止まる。
いや――蒼麗の動きが止まった。







「蒼麗ちゃん〜〜」



立った今、柴凛から齎された「全商蓮からのお呼び」によって、龍連に許可なく野菜を
引き抜かれた事に対する怒りを即座に引っ込めた秀麗は、庭で怒りを露にしている蒼麗を呼ぶ。
毎度の事ながら、秀麗は完全に蒼麗を連れて行く気だった。蒼麗は、秀麗にとって
一種の精神安定剤なのだ。とはいえ、流石に全商連内部にまでは連れて行けないので、
その間は近くの店で買い物などをして時間を潰していてもらうつもりだった。
そんな感じで、蒼麗の知らない所で己の予定が勝手に決められていく。



――けれど





蒼麗はパタパタと秀麗に駆け寄る途中で、その背後に絶対的な存在感を現す巨大な
虫取り網に気づいた。


瞬間、蒼麗は全てを悟った。







ヒュンッ!!







「蒼麗ちゃんっ?!」





妃を迎えてくれと叫びながら追いかけてくる老官達から逃げる劉輝よりも早く逃げ出す蒼麗に、
秀麗は後ろ手に持っていた網を構えて走り出す。その様に、何事かと出てきた柴凛と克洵は
絶句した。



「秀麗殿っ!一体何をしてるんだっ!!」


「秀麗さんっ?!」



必死の形相で逃げる蒼麗を追いかける秀麗。それは、まるで逃げる蝶を手段を問わずに
追いかける狩人のようだった。自分の身長よりも長く、巨大な虫取り網を軽々と振り回し、
秀麗は蒼麗を追い詰めていく。秀麗に注文されてあの虫取り網を創作した柴凛は、
全力で自分を責め、蒼麗に心の中で謝った。大抵、網や袋関係の注文を秀麗がしてくる
時は、何時も捕獲物は蒼麗と相場が決まっている。気づかなかった自分が間抜けだった。






いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああっ!






「蒼麗ちゃん、大丈夫よ、怖くないから止まって!!」





月の仙女――嫦娥さえ真っ青な麗しく艶やかな笑みを浮かべる秀麗。
しかし、そのピュンピュンと唸りをあげて振り回される虫取り網が全てを台無しにしていた。
そんな仕草を見せられれば、絶対にその笑顔は演技だと思うだろう。蒼麗もそう思った。
だから、よりいっそう速さをあげて逃げ続ける。捕まったが最後、虫かごにでもいれられそうだ。






「おほほほほほほほほほvv蒼麗ちゃん、待ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」






「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ」








蒼麗の叫びが冬空に響き渡り、消えていった――。










「それじゃあ父様、玖琅叔父様、行って来ますね」



全商連に行く為に乗っていく馬車の前で、満面の笑顔を浮かべてそう告げる娘。
本来ならやはり此方も笑顔で送り出すべきだが――



「秀麗……降ろしてあげた方が良いと思うんだけど」


「駄目。降ろしたら逃げるから」



しっかりと簀巻きにして肩に担ぎ上げられ、シクシクと泣いている蒼麗があまりにも不憫で……。
しかし、指摘したにもかかわらず、秀麗は完全拒否の態度を取る。そしてそのまま用は
済んだとばかりに簀巻き状態の蒼麗を連れて行ってしまった。後には、呆然と娘と姪を
見送る邵可と玖琅の姿が残った。





暫くして――





「邵兄上……秀麗は本当に勇ましくなりましたね………」



「そ、そうかな……」




姪が立ち去った事で即座に重くなりかけた空気も、姪の起こした行動がほんの少しばかり
回避したのだった。






―二次小説ページへ――続く―