死とは一体何なのか?
生命活動が停止する事?
肉体が滅びる事?
それとも――
忘れられる事?
ワスレナイデ
ワタシヲ
ただ、それだけだった。
だが、そこに一つの悪意が介入する事で、それは大きく変貌する事となる。
Chapter.1
20××年――東京某所。
夜も灯火が絶えない不夜城にも確かに存在する闇の中を、幾つもの影が駆け抜ける。
「おいっ! 見付かったか?!」
「まだだっ」
短くも鬼気迫る会話が緊急事態を示す。
最初こそ、久しぶりの『ASP』だと、共に仕事を受けた者同士で沸き立っていたが、すぐにそれは焦りに、そして恐怖へと変わる。
何時のまにか、狩る方が狩られる方へと変わりゆく恐怖に、影達は完全に冷静さを失っていた。
定期連絡を取っていたインカムの通信にすら気付かない。
「――っ!! 後ろだ!!」
仲間の言葉に、背後を振り返った男の目が極限まで見開かれる。
「レベル6?! だが依頼書には――」
そこで、声は途切れた。
ザーーー、ザザザーーーー。
地面に転がるインカムから必死の呼びかけが響く。
『おい、おい応答しろ!!』
呼びかけに応じない相手に、声は苛立ちから焦りに変わる。
だが、応えるものは終に現れず、ほどなくインカムだった金属片が地面に散らばった。
*
『緊急ニュースをお伝えします。今日未明、東京都某所で身元不明の遺体が複数発見されました。現在地元当局が調査中ですが、遺体の状態から先月から続く連続無差別殺人事件と同一犯と思われ……』
蝉の声が響く暑い朝の事だった。
八畳程の洋間リビングのテレビから流れるニュースは、からりと晴れた空とは正反対に重苦しく、神無家団欒の食卓に影を落とす。
「また犠牲者が出たのね」
「みたいだな」
若い夫婦の呟きに、朝食の載った座卓を挟んで黒髪のポニーテールを揺らしながら顔を上げたのは、今年中学一年になる二人の娘――香奈。
食べていたのがジャムトーストだった為か、丸顔の平均的な日本人顔の頬や鼻に、べったりと苺ジャムがついている。
思わず笑い出す両親に、香奈は頬を膨らませつつ台所からタオルを取りに行く。
戻ってくれば、両親は再びテレビに視線を戻しており、香奈は面白くない気持ちでテレビに目を向けた。
現在巷を騒がせている連続無差別殺人事件で、新たな犠牲者が出たらしい。
事件の共通点は発生時刻と殺害方法。
深夜二時〜四時に発生し、遺体は全て四肢がバラバラ。
しかし犠牲者に共通する点はなく、連続無差別事件として騒がれていた。
学校でも、教師から夜歩きしないように再三注意された。
昨今では夜遅くまで出歩く子供達も増え、それにより犯罪に巻き込まれる機会も多くなっているのは確かだから、当然の事と言える。
「香奈も気をつけなさいね」
「ふわ〜い」
ただ、自分には関係ないが。
夜十時には床に就く香奈にとっては完全に人事。
現時点では、家で寝ているところを襲われたという話は聞かない。
生返事に眉を顰める母を気にせず、二枚目のトーストを口に押し込む。
その耳に、事件について都民へ注意を促すキャスターの声が聞こえてきた。
既に興味を無くしていたが、真剣にニュースを眺める両親の手前、勝手にチャンネルを変える事は出来ない。
どうせ、いつもの様に専門家が出て来て、事件の原因追及や犯人像について好き勝手に話し合うお決まりのパターンな事は分かっているのに。
香奈は冷めた目で、ニュースを見つめた。
最初の頃は確かに恐ろしく思ったが、加熱していく報道特集、連日組まれる特番が毎日のように続けば、感覚も次第に麻痺していく。
事件発生現場自体が、香奈の住む郊外から距離がある事も一因だろう。
それに香奈はまだ中学生。
事件の重大性を完全に理解するにはまだ幼く、しかもテレビを通して見ているせいか、どこか絵空事の様な感覚しか持てなかった。
だから、こうして両親が熱心に事件のニュースを見るのが理解出来ない。
とはいえ、もしもだ。
もし、この世界の裏にあるものを香奈が知っていたならば。
もし、人ならざる者達によって起こされる事件がある事を香奈が知っていたならば。
もし――自分がそちら側に属する特殊な産まれだと知っていたならば。
全ては仮定に過ぎないが、幼くともこの事件がもたらす危機に気づく事は出来ただろう。
そう――彼女の両親のように。
トーストの残りを口の中に押し込み、牛乳を流し込む。
「香奈、またそんな食べ方して」
母の小言も右から左。
ゴクリと音を立てて口の中のものを飲込むと、香奈は椅子から立ち上がった。
「時間だから、学校行ってくるね」
食堂を後にする娘に、母が慌てる。
「も、もう行くの?」
「今日は朝一でテストがあるから」
「テストって、昨日は何も勉強――って、待って香奈!」
「な〜に〜?」
「今週の土曜日だけど、お祖父様の所に行くから空けておきなさい」
お祖父様――それが意味する相手は、母方の祖父しかいない。
父は天涯孤独だから身内なんて存在しない。
だが、香奈にとっては母の実家に行くのは苦痛でしかなかった。
あの家は香奈にとっては敷居が高すぎるのだ。
それに、集まる従姉妹達の事を考えると、更に気が滅入る。
けれど、月に一回行われる親族会議は、末端の分家に至まで絶対出席が義務づけられている。
拒否出来るのは、身内に不幸があった時か、自身が大病を患った時のみという鉄の掟。
十六歳以下は会議不参加だが、別室で待っていなければならない。
昔からの名家だかなんだか知らないが、出来るならばあまり関わりたくなかった。
半ば投げやりに分かったと返し、香奈はいそいそと玄関へ向かった。
*
「全く、あの子は……」
最近反抗期なのか、ちっとも自分の言う事を聞きはしない。
「しかも、事件の事も軽く考えているし……」
連続無差別殺人事件ともなれば、普通なら怯えたり恐ろしく思ったりするものだ。
なのに、娘は何処か別の世界で起きている様な感覚しか持っていない。
だが、それが今を生きる者達の感覚なのかもしれない。
どんなに凶悪な事件が起きても、時間と共にも忘れ去られていくのが世の常だ。
事件は、毎日のように起きていく。
特に、事件の当事者でもなければ、忘れるのはあっという間だ。
「まあまあ――大丈夫だよ、香奈は」
顔にかけた直線と曲線を組み合わせたラインの眼鏡を光らせ呟く夫に、妻がギロリと睨み付ける。
互いに三十を数え、夫もようやく落ち着いてきたと思ったのに、昔と同じ軽い口調。
確かに外見は多く見積もっても互いに二十代前半で、年齢相応で良いという評価もあるが、妻からすれば溜息しか出なかった。
若々しいどころか、十代の若者だ、これでは。
「何を根拠に」
苛立つ口調に、夫は二重の瞳に悪戯っぽい光を宿して苦笑する。
娘にそっくりな妻の顔。
いや、娘が妻にそっくりなのか。
違うとすれば、娘の方が気が強そうな印象を受けるというぐらいだ。
夫はもう何度も見てきた妻の顔をまじまじと見る。
ショートカットの黒髪と黒い瞳。
細眉と一重瞼、薄唇で丸顔の平坦な日本人顔は、意識しなければすぐに埋没する程特徴がない。
けれど、自分にとっては妻の何もかもが愛しい。
そっと、癖の無い妻の髪に触れる。
「根拠ならあるよ。俺が居るからさ」
「……」
「ね?」
夫の言葉に、妻はしばし隣にあるその顔を見つめる。
銀フレームの眼鏡の下に隠された造形を知る者は、限られた者だけ。
気付けば、手を伸ばして夫の顔を触っていた。
華奢でシャープな輪郭を辿り、整った鼻筋、形良い艶やかな紅唇を指でなぞる。
誰が信じるだろう。
この眼鏡の下にあるのが、美の神すら敵わない秀麗過ぎる美貌が隠されているなど。
夫は己の女性的な美貌を嫌っているが、美貌を隠す眼鏡を外せば即座に多くの者達が群がる筈だ。
ミディアムレアの黒髪が揺れ、ふわりと麝香の香りが漂う。
夫の甘い体臭を間近に感じ、妻はハッと我に返った。
「……そうね」
確かに、この夫が居れば、大抵の事は何とかなるだろう。
妻は初めて夫と出会った時から今までの事を思い返して頷く。
但し、何とかなる分、とんでもない事態に巻き込まれた事も多々あったが。
「にしても……今回の犠牲者って」
「ああ。たぶん……な」
眼鏡下の涼やかな切れ長の目が、すっと細まる。
「……暫くは騒がしくなるわね」
「そうだな――ここも、向こうも」
最初は何気ない普通の『仕事』だったのだろう。
結婚して、その世界からは遠のいたが、あの機関から人員が派遣されていた事は聞いている。
しかし、その人員が今度の犠牲者となった。
となれば、彼らは黙ってはいない。
各国上層部に多大な影響力を持つが、どの国にも属さない国際秘密独立機関。
『国際超常現象機構〜International supernatural phenomenon mechanism〜』――通称『ISPM』。
決して表舞台に立たず、知る者はごく僅かの、遙か昔から続く歴史ある組織。
二度の世界大戦中には、絶対的な中立を守り続けたほどの力を持つ国際社会公認の独立組織。
だが、各国政府公認とはいえ科学文明が発達した現在では、祈祷が治療の一環として認められていた時代に比べてその存在を知る者達はごく一部だ。
この機関が扱うのは、その名の通り超常現象。
それも、特殊能力者関係のもの、偶然では説明がつかないものと種類を問わずに、人ならざる者達が悪意の下に介入する、常人の手には終えない特殊超常現象事件――『ASP』である。
サイキック現象、心霊現象、不可思議な未解決事件等々なものがあるが、それらを影から解決するのを最大の目的とする。
そして――超常現象が故意に、しかも自分達側の存在の介入によって起こされる事を良しとしない、人外の者達とも協定関係を結び協力し合う特殊機関。
各国の能力者と呼ばれる者達の大半も所属する機構としても有名な――『ISPM』が動く。
「やれやれ、だな」
その機構に少なからず縁のある夫の横顔に、いつもの笑みはなかった。
目次/続く