第一章 忘却の罪




Chapter.1



 香奈が通う山の上にある公立中学は、東京都郊外の中では最も生徒数の少ない学校だった。
 生徒数は三学年合わせて四十五名、教師も七名しか居ない。
 もともとこの学校は、高度経済成長による急激な人口増加により、郊外にあった城山の一つを切り開いて造成した住宅団地の子供達の為に建てられた。
 それは、今から五十年以上も前の事だ。
 最盛期では三百名の子供達が通っていたらしい。
 通学路の坂には、今でこそ通学用の小型バスがあるが、当時は路線バスさえ通らなかった事を思えば登下校はかなりきつかっただろう。
 なにせ、麓から歩いて二時間半。
 バスでも、急斜面の坂とカーブの多さから、その半分はかかる。
 因みに、自転車通いは自殺行為なので、入学して間もなく誰も居なくなるという。
 それでも、道がきちんと整備されただけでもマシだろう。
 住宅団地は老朽化と住む者達の減少から二十年以上も前に取り壊されたが、学校はその後も生徒達を育む事となる。
 檜をふんだんに使って五十年前に建てられた二階建ての木造校舎は、当時のまま。
 遊具が殆ど無い校庭には、学校が建設される以前から聳える神依木――ナギの大樹が葉を付け、ここに通う生徒達を長年見守り続けてきた。
 教室に入ると、何時もの様に先に来ていた同級生二、三人が、木の匂いと共に出迎えてくれる。
「香奈、おはよ〜」
「おはよう〜」
 香奈のクラスは、男子五名、女子五名の合計十名。
 全校生徒の四分の一しか居ない。
 小学校の時はもう少し多かったが、殆どが麓にある中学に通ってしまった。
 香奈の家が含まれる学区内に中学は三つ。
 一つは麓の中学で、それこそ一学年十クラスのマンモス学校。
 一つは、この山の中の中学だ。
 だから、学区内の小学校の生徒達はこの二つから通う中学を選ぶのだが、大抵は麓の大きな中学に行ってしまう。
 因みにもう一つは、最初から選択肢にはいれない。
 なぜなら、その中学は幼稚部から大学院までのエスカレーター式の名門校。
 途中入学出来るのは、ごく一部の限られた秀才達だけという超難関だからだ。
 しかも、良家の子女が多く通っているせいか、学区外の学生達にとっても憧れの対象となっていた。
 そこに通っている事が、一種のブランドであり、ステータスなのだ。
 だが、自分の通う『山中中学』も中々のものだと香奈は思っている。
 元々自然豊かな場所が好きだった香奈は、周囲の予想を覆し、自分の意思でこの学校に通う事を決めた。
 なんというか――一目惚れしたのだ、この学校に。
 だから、毎日の登下校も香奈には苦にならなかった。
 因みに此処に通っている生徒達は、みんな香奈と同じようにこの学校に一目惚れして入ってきた者達が多い。
 そんな事もあって、生徒数が少なくても何とか学校は運営されていた。
 だが、それに加えて、ここの卒業生達がこの学校を残す事を強く望み、各方面に働きかけているのが大きな要因となっていると聞く。
 壁や天井も木製なら、机と椅子も同様。
 まるで歴史から取り残された様な、昭和の面影があちこちに色濃く残る。
 香奈は今年の春から使い始めた自分の机に鞄を置くと、手招きする友人達へと駆け寄った。
「今日も暑いね」
 すると隣に居た、背中中央まであるゆるやかなウェーブの髪をした友人――榎木 梓がうんうんと頷く。
「うん。でも、もう少しで夏休みだから、我慢我慢」
 今年の夏は少し早く訪れたと言われている。
 まだ七月なのに、うだるような暑さに熱中症や日射病で病院に運ばれる者達も多いという。
 去年は冷夏だった分、暑さに倒れる者達は余計に多く、電気店ではエアコンどころか扇風機まで姿を消していた。
 香奈の家には十年以上前に買った古い扇風機が一つあるが、涼風どころか熱風をかき回している状態という火に油を注いでいる始末。
 今年こそはエアコンが欲しいと父に願ったが、今年のボーナスは別の壊れた家電の修理代金となる為、期待は出来ない。
 「エアコン、欲しい」
 教室には、天井に備え付けられた扇風機が風を送っているが、暑い。
 家の扇風機に比べれば涼しいが、暑くて香奈はとろけそうになった。
 ダラダラと流れ落ちる汗が、木の床に染み込んでいく。
 いっそのこと、打ち水でもしてやろうか。
「何でも、都心は三十六度だって〜」
 そこに、梓がいらない情報を提供する。
 緩やかなウェーブの髪を揺らし、つり目を和らげて笑う姿がより憎らしい。
 なんてことを。
 温度を聞いたら余計に実感してしまうではないか。
「ってか、七月初めでその温度って……」
 八月になったらどうなってしまうのか。
 しかも、この前クリーニングに出した下ろし立ての夏制服には、汗の大きな染みが出来ている。
 紺色のセーラー服に膝丈のプリーツスカート。
 胸元には大きなリボンが飾られ、香奈は麓の中学のブレザーの制服よりも可愛いと思っている。
 まあ――超名門校のエスカレーター式学校には敵わないが。
 あそこは学校専属のブランドがあるし、お抱えの会社だってある。
 ちくしょう……お金持ちは敵だ。
 しかし今の敵はこの暑さだ。
 香奈はふらふらと近くの椅子に腰を下ろすと、ペタリと机に頭を付けた。
 が、当然暑くなった木の板は香奈に安らぎをもたらすどころか、暑さに飛び退かせた。
「今ジュウ〜って言った!!」
 頬をつけた瞬間、ジュウ〜と肉の焼ける様な音が聞こえた。
 しかも、机から白い湯気が立っているようにも見えるのは目の錯覚だろうか。
「あははは! 香奈ってば、何当たり前の事してるのよ」
 爆笑する梓。
 もう一人の友人もクスクスと笑っている。
「暑いよ〜」
 暑い。
 暑くてたまらない。
 きっとこのまま腐敗出来る。
 やっぱり、季節は春と秋が最高なのだ。
 冬は寒くて炬燵から動きたくないし、夏など論外だ。
「で、今朝のニュースだけど」
 梓の言葉に、香奈は椅子から落ちかけた。
 よりにもよってその話か。
 しかも、自分が来る前まで、連続無差別殺人事件の事でかなり盛り上がっていた事が、梓達の様子から分かってしまった。
 それに、教室の引き戸を開ける前に「わ〜」とか「きゃ〜」とか声が聞こえていた気がする。






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