第一章 忘却の罪




Chapter.2

 

 桜子が来る。
 桜子が来る。
 桜子が来る。
 香奈は決めた。
「よし、逃げよう」
 逃げるのか!!
 美鈴と店長が同時に心の中で叫ぶが、それに気付かず香奈は梓達に駆け寄る。
「じゃあ、これで」
「決まったの?」
「は? って、香奈」
 梓がギッと睨み付けるのも忘れるほど、香奈の無表情が恐かった。
 その表情の前には、怒りさえ吹っ飛んでしまう。
「か、香奈?」
「あの~、花束が出来ましたが」
 ホスト風イケメン店員が出来た花束を抱えてやってきた。
 と、その時だ。
 じゃり……じゃり……。
 アスファルトを踏み締める音が、香奈の耳に聞こえる。
「あ、じゃあ代金――きゃっ!!」
 梓が代金をホスト風イケメン店員に渡した途端、香奈が梓と理佳の手を掴む。
 そしてそのまま裏口に向かって走る。
「香奈!!」
 美鈴が慌てて茫然とするホスト店員の手から花束とお釣りを受け取ると、三人を追い掛けた。
 そうして消えた四人の少女に、店長だけでなく店員達も唖然とした。
「ど、どうしたんだ?」
「さ、さあ?」
 一様に首を傾げる中、彼らはその音を聞く。
 じゃりっと、一際強く地面を踏みつける音。
 聞こえてくるのは、天の歌姫にも優る玉響の響き。
「こんにちわ――」
 入り口から響くその声音を聞いた瞬間、店長だけは気付いた。
 そして、店員達や客達が魅入られ言葉を無くす中、短く呟く。
「すげえっ」
 自分でさえ気付かなかった気配に、香奈は気付いたのだ。
「流石は、あの方のご息女――いや、姫君だ」
 それは小さな小さな呟き。
 だが、しっかりと聞き取ったその存在は、ゆらりと水が流れる様な動きでそっと店長の後ろに忍び寄る。
「そう……居たの……ここに」
「っ?!」
 まるで、柳の木の下に出る女性の幽霊の様なオドロオドロシイ声音に、店長の動きが止まったのを彼らは確かに見た。
 と同時に、幾ら恐ろしく美しいとはいえ、たった十二歳の少女に怯える店長の姿も、彼らは見てしまった。
 一方、すんでの所で逃げた香奈は、梓と理佳の手を掴んだまま引き摺るようにして椿の家までの道を爆走していた。
「ちょっ!! 香奈! 止まりなさいってば!!」
「かかかか香奈ちゃんっ!」
「ってか、香奈あぁぁ!! 花束忘れてるってばああ!!」
 三者三様の口調だが、とりあえず目的は香奈を止める事。
 梓は罵り、理佳は怯え、美鈴はひたすら制止の声を上げ続けた。
 だが、終に止める事が出来ないまま、気付けば椿の家――赤い屋根をした二階建ての一軒家の前に立っていた。
 と、そこでようやく梓と理佳の手を離し、香奈は膝を突いた。
「はあ……はぁ……し、死ぬかと思った」
「何がよ!!」
 梓の言葉に、香奈ははっとした。
 そうだ。
 もしあの時捕まっていたら、自分だけの被害では済まなかっただろう。
 徹底的に桜子をライバル視している梓の事だ。
 不意打ちにばったり出会えば、どんな騒ぎになっていたか分からない。
 それこそ、梓が大暴れするという事態にもなり得た筈だ。
 流石、自分。
 この時だけは、香奈は自分を褒め称えた。
「はぁはぁ……香奈、突然走り出さないでよ」
「あと一秒でも遅かったら鉢合わせしてた」
 美鈴に告げる香奈の顔は無表情。
 しかし、その裏に怯えの色があるのを確かに美鈴は見た。
 どんだけ恐いんだ。
 とはいえ、今までの桜子の香奈への態度を見ていれば、納得も出来る。
 小学校時代から同級生だった美鈴は、香奈と桜子の関係を間近で見てきた。
 そして大抵香奈が厄介事に巻き込まれる時は、桜子が原因だったりする。
 彼女は自分の存在が引き起こす事態を理解していないとさえ美鈴は思ったほどだった。
 そうして、香奈の六年間は波乱に満ちていた。
 いや、幼稚園の時も入れればも、八年間か。
 それでも何とか中学に行き、桜子と離れたが――実際完全に縁を切れたわけではない事を美鈴は知っている。
「香奈……」
 今もキョロキョロと辺りを見回す香奈の姿は、どうみても不審者を警戒する域だ。
 よほど心の傷になっているんだろう。
「とりあえず、椿の家に入ろうよ」
 梓と理佳も香奈の姿が気になるのか、チラチラと見ている。
 というか、以外と人通りが多い場所に立つ椿の家。
 何せ、通りを一つ挟めばそこは沢山の店が建ち並ぶ大通り。
 ひそひそとこの光景を目撃した道行く人達に噂される前に、さっさと香奈を家の中に入れてしまおう。
 とりあえず、今日ここに来る事は、担任の方から連絡がいってるので、今頃は待ち兼ねているだろう。
 香奈を梓と理佳に任せると、美鈴はチャイムを鳴らした。
 ほどなく、「はい」と声が聞こえ、扉が開き女性が顔を出した。
「あらまあ……いらっしゃい、みんな」
 椿によく似た妙齢の女性が現れ、香奈達を家へと招き入れた。
 玄関の扉が閉まると、代表として梓が挨拶する。
「突然お邪魔してすいません」
「いいえ、それよりどうもありがとう」
 今年で三十二になる椿の母は、到底十二歳の子供を持つとは思えないほど若々しい。
 着物の先生という職業柄か、いつも着物を身に纏い、白い肌に生える癖の無い艶やかな長い黒髪を上品に纏めてシンプルなシニョンを作り、真珠の髪飾りで留めている。
 今日の着物は水色の上品なものだった。
 華奢な垂れ目の瞳に加えて、ふっくらとした唇と口元の黒子がいかにも色っぽい。
 正に、日本が誇る和風美人そのものである。
 今も歩く音をさせず、楚々と進む姿に、少女達が溜息をつく。
 それは、年頃の少女が持つ、嫋やかで美しい大人の女性に抱く憧れのようなものだった。
 だからこそ、香奈達は思う。
 椿には父は居ない。
 いや、居たらしいが、椿は知らない。
 何でも、さる名家の家柄だったらしいが、椿がまだ赤ん坊の頃に椿の母が娘を連れて家を飛び出たという。
 その後、父親とは没交渉。
 椿は父を知らずに育った。
「はい、ここですよ」
 椿の母がふわりと微笑み、娘の部屋まで案内する。
「椿、椿」
 コンコンとドアを叩き、娘の名を呼ぶ。
 しかし、反応がない。
「あ、あの……」
 重たい空気に居たたまれなくなった美鈴が声をかける。
「ごめんなさい。起きているとは思うんだけど……椿、お友達が来て下さったわよ」
 しかし反応はない。
「あの、後は私達が」
 梓の申し出に、椿の母がそんなっと声を上げるが、何処かその瞳には安堵の色が浮かんでいた。
「でも……」
「いいんです」
「……」
 迷う様に視線を彷徨わせるが、ついに決心したのか椿の母が不安そうな顔を浮かべた。
「あの、娘の事を頼みますね」
「はい」
 その後、椿の母に持ってきた給食のパンと牛乳を託すと、残りのノートを手渡すために香奈達は扉の前で椿を呼び続けた。
 それから、どれだけ時間が経った頃か。
 ようやく、中でコトンと音が聞こえたかと思うと、ガチャッと鍵が開く音が聞こえた。
 ギギギと扉が開き、扉の間からそれが見えた。
「きゃあぁぁぁ?!」
 薄暗い部屋にぼ~と白く光る、もの。
 幽霊と、理佳が叫び梓にしがみつく。
 美鈴が、後ろの壁にバンっと体をぶつけた。
 まだ日も高いというのに、幽霊が現れるなんて!!
「――椿、何してるの」
 そこに、香奈ののんびりとした声が響く。
 恐怖に戦き、一種の恐慌状態に陥っていた三人が、ハッと我に返った。
「え?」
「つ、つつつ、椿ちゃん?」
「椿なの?」
 更に、扉がギギギと開き、のそっと白いものが出てくる。
 そのシーツから覗く、見覚えのある鼻から下の顔。
「……来て、くれたんだ……」
 ぼそりと呟く姿が、また見事に幽霊っぽかった。


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