第一章 忘却の罪




Chapter.5

 

「香奈、今日は休まなくていいの?」
 母の心配そうな言葉に、香奈は笑顔を浮かべる。
「うん、大丈夫」
「具合が悪くなったら、すぐに連絡するんだよ」
 父の言葉に、香奈は心配しすぎだと笑う。
 だが、その顔色は余り良くない。
「じゃあ、行ってきます~」
「あ、香奈! お父さんと――」
 しかし、娘の姿はもう玄関になかった。
「あの子ったら……」
「清奈にそっくりだね~」
 そう言いつつも、夫――連理が指を鳴らせば、家の外にあった幾つかの気配がその場から消えた。
「追い掛けさせたの?」
「うん。そのぐらいにしか――」
 ふっと、連理が笑う。
「役に立たないし?」
「連理……」
 何時もは穏やかな眼鏡下の涼やかな瞳に、鬼畜の光が宿ったのを、妻――清奈は見逃さなかった。
「娘が生まれても変わらないわね、あんた」
「酷いね~、清奈は。こんなに優しくなったのに」
 夫の笑顔が胡散臭く感じられる。
 とはいえ、昔はもっと酷かった。
 そもそも、召喚相手を間違えましたと言ってるのに、「僕、人の嫌がる事するのが大好きなんだ」とか「気に入ったから、契約してやる」と強引に迫ってきたこの男。
 顔が良いからと許される事ではない。
 そもそも、今までイタしてましたと言う様な気だるげで扇情的な色香を漂わせ、しかも半裸で召喚されてきたこいつ。
 白い胸元には赤い華が沢山散らばり、昔は長かった黒髪をかきあげる動作だけでも鼻血が出そうなほど色っぽかった。
 だが、その後に起きた事は今でも思い出したくない。
 変な化け物に襲われて、それから友人を助けようとして、必要に迫って超高等術と呼ばれた家に伝わる召喚陣で呼んでしまったのが、この男。
 神?
 冥界の?
 ってか、もの凄く強い?
 んな事どうでも良い。
 命よりも貞操の危機を感じた十四歳の夏。
 同じく、十四歳のこいつに食われた。
 しかも、あんな所で!!
 あの時は二度とこいつに会いたくないと思ったが、その後も連理はここに残り続けた。
 何でも、女遊びはほどほどにと言われていたのに、自分が呼び出す直前まで何処かの女性に手を付けたとかで、反省するまで帰ってくるなと人間界に追放されたのだ。
 おかげで、その被害はこちらに来た。
 イヤだイヤだと騒いでいるのに、連理は強引に人の家に住み込み、しかも清奈と契約まで交わしてしまった。
「ふ……あの頃はまさか結婚するとは思わなかったけど」
「あはははは! 粘り勝ち?」
 連理はニヤリと笑う。
 一目惚れだった。
 でも、上手く自分の気持ちを表わす事が出来なかった。
 けど、自分を誘惑してくる者達が体を繋げるのは愛しているからと言っていたのを思いだし、その様にした。
 愛してるならば当然だと、煩くつきまとう者達は言っていた。
 愛しているから、抱くのだ。
 愛しているから、抱いて欲しいのだ。
 貴方ほど美しい方なら、誰だって一目で愛する筈だと。
 なのに、清奈は愛してくれるどころか思い切り拒否してきて、でもどうしても諦めきれなくて強引に居座った。
 本当だったら即座に冥界に連れ帰りたかったが、事情を知った兄姉達に怒られた。
 人にとって冥界は死んだ後に行く場所であって、死ぬ前に軽々しく来て良い場所ではない。
 妻にすると言っても同じで、仕方なく人間界で口説くことにした。
 神にするにしても、清奈が受け入れてくれなければ絶対に駄目だと両親にも口を酸っぱくして言われた。
 まあ――結局は、自分が人間に化けて生活している現在だが。
「でも……香奈、本当に大丈夫かしら?」
 清奈の心配そうな顔に、連理はすっと娘が出て行った玄関の扉を見つめた。
 いつもの時間に目覚めた香奈は、「夢を見た」と言った。
「哀しくて……寂しい夢だった」
 それは、火葬場の夢。
 そこに小さな少女と父が居て、火葬場の煙突から流れる煙を見上げていたという。
 少女の祖父が亡くなったらしい。
 けど、少女は死というものが分からず、葬式の間ずっと祖父を起こそうとしていた。
「その子ね、ずっと考えてたの。死ぬって、何? ――って」
 死とは何か?
 どのようになれば死ぬのか?
 少女はひたすら考えた。
「でも、結局その子は分からなかったの」
 それでも祖父の写真にいつも話しかけていた。
 しかし、いつしか時が経つにつれて、少女は少しずつ死を理解していった。
 それは、テレビや本等の色々な情報から、そして色々な経験をして……。
「でもね……その子は死を理解していくに連れて……しなくなったの」
 祖父の写真に語りかける事もなくなり、祖父の事を思い出す事もなくなっていった。
「……とても寂しい夢だった」
 まるで、セピア色の昔の写真を見せられた時の……ああ、そういえばこんな事もあったな――今まですっかり忘れていたけど。
 そんな……気持ちだった。
「ねえ、お父さん、お母さん……死ぬって」
 一体、どういう事を言うんだろうね?
 娘の言葉に、連理と清奈は言葉を詰まらせた。
「まさか……十二歳の娘にそんな事を聞かれるなんて思わなかった」
「はは……だねぇ」
「で、どう答えるの?」
「ん?」
「死を司る冥界出身者さん」
 出身者どころか、連理は冥界の統治者の末公子だ。
「ん~、そうだね~」
「あら? 答えられないの?」
「だって難しい問題だしね~~死の定義って。人間なんて特にそうでしょう? 文化圏、時代、分野などにより様々だし」
 ある国では、人は死によって魂が一旦肉体を離れるものの、再び同一の肉体に戻ってくるとされていた。
 ある国では、天国に行くことであり、人は死んで永遠の生命を得るとされていた。
 ある国では、人間の肉体は死とともに滅ぶが、その魂は不滅だとされていた。
 ある国では黄泉の国に行き、ある国では輪廻の一過程とされ、ある国では死んだら終りと言われていた。
「で、これが医療になるとまた細かく定義される。脳が死んだら死亡とするか、心臓が止まった時が死亡なのか、では植物人間は? 脳死とは? 肉体が滅んだら死ぬって事なのか? ――ってね」
「連理の言う通りね。で、その答えは?」
「だから、分からないって。答えなんてないんだ」
「……それ、冥界の公子の言う言葉?」
「あのね~、冥界なんて所詮は魂の休息所で、死者と呼ばれる存在を裁いたりする事もあるけど、死そのものには関わらないんだよ」
「死神は?」
「ああ。あれはお迎えの死者だよ」
「魂を狩る鎌持ってるじゃん」
 前に見た死神は、おっきな鎌を背負っていた。
 しかし見た目はご老体のせいか、はっきりいってよろよろとした歩き方に清奈は胸が痛くなった。
「ああ、あれ。ただの武器だから」
「何の為の」
「ひ・み・つ」
 ウィンクをされ、清奈は思わず目をそらす。
 別に気持ち悪いとか思わない。
 寧ろ似合い過ぎる。
 でも、こいつがやるというのが問題なのだ。
「じゃあ、死は誰が司ってるの。寿命の神?」
「いや、寿命の神は違うよ。あれはただ、貴方はこのぐらいの寿命ですとか、決められたリスト通りに寿命を与えているだけだから。で、そのリスト作りも――って、話がそれるから省略」
「おい」
「で、死は『死』を司る女神がいるんだ」
「いるの?」
「うん。でも、誰かは知らないよ」
「なんで?」
 すると、連理は少し哀しげに微笑んだ。
「誰だって――死にたくはないだろう?」
「……」
「死の神は、全ての存在の死を司る。例外はない。だから、全ての者達にとって畏怖なんだ」
「畏怖……」
「特に、今の生に満足している者、幸せな者にとっては……ね。でも、死は同時に救いでもある」
「どういう事?」
「本当に恐ろしいのは……滅びない事なんだよ」
 連理の言う事がよく分からない。
「滅びない事……」
 滅びる事だったら分かる。
 誰もが忌避する事だから。
 しかし、連理はその逆が恐ろしいと言う。
「……なんか、分からない事ばかりね」
「だね。だからこそ、死は尊い。いや――」
 『終わり』は、掛け替えのないものなのだ。
 しかし、その意味を誤認し、必要以上に恐れてそれを回避しようとする者達が居る。
 だからこそ、『終わりの女神』は自分の眷属神達の存在を隠した。
 生の終わりを司る眷属神――『死の女神』もまた、『終わりの女神』によって隠されてしまった。
 もし『死の女神』だと知られれば、殺されてしまうから。
 女神はそうやって、見付かると同時に殺されていった。
 『終わりの女神』ほどではなくとも、何度も、何度も。
 いや、『死』そのものを消し去りたい者達にとっては、殺すだけでは飽き足らず、何度もその魂ごと消滅させようとした。
 それが叶わなかったのは、ひとえに『死の女神』を守ろうとした少数の者達や冥界の尽力ゆえである。
 しかし、『死』を恐れる者達の暴挙は止まず、『死の女神』はその存在すら否定された。
 『死』さえなければ。
 『死』などいらない。
 『死』など消えてしまえ。
 見付かれば、惨たらしく殺されていく。
 たとえ、冥界で隠す様に育てられても、必ず密告者が現れては殺されていく。
 女神が『枷』だった事も大きな原因の一つだった。
 女神が『枷』として制御する『完未』達に人知れず懸想し、横恋慕し、募る憎悪と殺意を哀れな少女に向けるのだ。
 どれだけ防ごうとしても、次から次へと現れる殺戮者。
 それは『それ以外の者達』にとって悲劇とも言える、本能的なもの。
 完璧で完全。
 恐ろしいまでに美しい『完未』に心酔し虜になるがゆえの、『枷』への嫉妬だった。
 嫉妬は暴走すれば簡単に変質し、下手すれば殺意へと変わっていく。
 『枷』と呼ばれる者達が周囲に苛められたり、酷い目に遭わされやすいのは、一重にこのせいだと言われている。
 だが、『枷』を殺す事は結局は自分達の首を絞める事になりかねない。
 『枷』たる女神が死ぬ事で、女神が制御してきた『完未』達は何度も狂い死ぬ事となるからだ。
 しかし、それでもなお、その『完未』達を求め欲した者達は自分達の罪に全く気付かず、女神が殺したのだと好き勝手に罵り憎むのだ。
 もちろん、『それ以外の者達』が全てそうではない。
 『枷』を守り、手を取り合って生きる者達も居る。
 連理も、清奈と出会い共に生きていく中で、そういう『それ以外の者達』を見てきた。
 『枷』と結ばれたり、『完未』と結ばれる『それ以外の者達』だって居た。
 しかし――それは、ごく一部の者達にしか過ぎず、いつしか『死の女神』は冥界の者達からもその姿を消していく。
 今はもう、『死の女神』が何処に居るのかは分からない。
 ただ、それでも『死』が存在していると言う事は、何処かで転生を繰り返しているのだ。
 冥界でさえその所在を明らかにすることが出来ない『幻の存在』たる『死の女神』。
 遙か昔に『終わりの女神』と当時の冥界大帝との間に結ばれた協定。
 彼女の眷属神の転生先を知るのは、冥界大帝とその后のみ。
 冥界側はそれを受け入れた。
 『死の女神』は冥界にとっては柱とも言うべき存在。
 その存在がなくなる事は、冥界の存亡をも左右する。
「『死』か……」
「……清奈はどうする?」
「え?」
「もし、『死の女神』が君の前に来て、貴方は死ぬのって言われたら」
「……そうね~。どうしようかな?」
「まだ香奈が小さいんだから死にたくないって言うのかと思った」
「そりゃあ死にたくないわよ。でも、死にたくないからですむ話じゃないでしょう?」
「まあ……ね」
「とりあえず、少しでも可能性があるなら、死なない努力はするわよ」
「それが『死の女神』を殺す事でも?」
 連理の眼差しが厳しさを増す。
「ん~~、そうね……でも、それはもしするとしても一番最後かな。その前に、それ以外の方法を探すわね」
 それでももし駄目なら……。
「その時は、その時ね」
「……」
「ああ、でももし私が死んで再婚するとしても、香奈の事を蔑ろにする相手は駄目よ。香奈の事を可愛がってくれる相手。例え新しい兄弟が生まれてきても、一緒に可愛がって大切にしてくれる相手なら――許す」
「僕が再婚するわけないじゃん」
「一人でやっていけるの?」
「いけない。だから、清奈は死んじゃ駄目」
 連理は清奈を抱き締める。
 そして抱き締めながら思う。
 昔は、『死の女神』を殺す者達の行動を愚行だと思った。
 決められた『死』を回避する為には、手段を問わない行動に醜ささえ感じた。
 しかし――清奈を得て、香奈を得た今……自分ならどうするかと思う事がある。
 もし、妻が、娘が死ぬとなった時――。
 その女神が自分の前に舞い降りたならば……。
 女神を殺した相手の中には、自分の命ではなく他者の命の為にそうした者達も居たのだろうか。
『その時はその時よ』
 先程の妻の言葉が蘇る。
 そう言って笑った妻の笑顔に、こみ上げてきた荒ぶる心が鎮まっていく。
 その時はその時――。
 ふと、連理は気付いた。
 『死の女神』は好きでその力を持っているわけではない。
 そして……彼女にだって、彼女の死を回避したいと戦った者達が居ただろう。
 彼女が死ねば、その死を悼む者達は居ただろう。
 変わらないのだ。
 『死の女神』だって、大いなる輪廻の輪の中の一人で、この世を支える神の一人。
 それに自分は言った筈だ。
 『死は救いだ』と。
 『本当に恐ろしいのは滅びない事』だと。
 別れの来ない出会いなどない。
 いつか、別れる。
 それは……誰よりも自分が知っている。
 けれど、例え離れる時が来たとしても……。
「まあ、もし私が死んだとしても、忘れないでいてくれればいいかな」
「え?」
 清奈の言葉に、連理が我に返る。
「あのね~、死んで、しかも忘れられたら流石に哀しすぎるわ。まあ――次の奥さんの事はあるから何時もとは言わない。でも……時々でいいから」
 思い出して。
 妻の言葉に、連理は瞬いた。
「清奈……」
「あ~、でも今すぐ死ぬ予定はないから」
「……清奈、清奈清奈清奈!」
「うわっ! ちょっと何処触ってるのよ!」
「清奈が可愛すぎるのが悪い! ああもうっ! 今日は仕事休むっ」
「休むじゃないわよ! しっかり仕事してきなさいっ!」
 そうしてすったもんだの挙げ句に叩き出された連理は、家で出来る仕事に変えようか本気で悩んだという。


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