Chapter.5
ザアザアと雨が降り注ぐ。
だが、その雨にさえ消せない煙が、空を割く様な大きく高い煙突からもうもうと吹き出ていた。
まるで死者が空へと上がっていくようだと、それを見た者達は思うだろう。
他の遺族達が室内で休んでいる中、少女は父と二人で外からその煙を見上げていた。
傘を差した父が娘を抱き上げながら、そっと呟く。
「父さん……」
哀しげな囁きに、少女は父を見る。
「おとうさん、どうしてないているの?」
少女は、ようやく物心が付いたぐらいの年齢だった。
だから、今の状況もよく分からない。
いつもの様に朝起きると、母が忙しそうに動き回っていた。
それは何時もの事だが、母は娘を見つけるとすぐに何処からか取り出してきた黒い服を着せた。
そして自分も黒い服を身に纏う。
少女はピンク色の服が好きだった。
だから、黒なんて嫌いだと脱ごうとしたら、母に今日だけは我慢してと言われた。
そして母は、少女が通う幼稚園に休む事を告げた。
その中で、少女はその言葉を聞いた。
「はい……父方の祖父が亡くなって」
父方の祖父?
亡くなる?
よく分からなくて――でも、なんだか凄く胸がグルグルした。
ふと、少女は自分のおじいちゃんの事を思い出す。
父の家に行くと、いつも優しい笑顔で少女を迎えて抱き締めてくれた……たった一人のおじいちゃん。
そういえば、いつだったか父がおじいちゃんの事を祖父と言っていた気がする。
でも……。
小さな頭で考えれば考えるほど落ち着かなくて……少女は父を捜した。
居間には、父が仕事で持って行く鞄があったから、家に居る事は分かっていた。
いつもなら、とっくに仕事に行くはずの父が居る。
それもまた、少女の小さな心を焦らせていた。
父は居た。
「おとうさん……」
庭に面した縁側に座り、静かに灰色の空を眺めていた。
その横にちょこんと座ると、父がようやく娘に気付く。
「ああ……――か」
「おとうさん……おじいちゃん、どうかしたの?」
望んでいた答えはなんだったのか。
けれど、そう聞いたという事は、少女も何処かで予感していたのかもしれない。
ただ、それが理解出来なかっただけで。
その時の父の顔を、少女は一生忘れられない。
「……おじいちゃん……そうだな……――は、おじいちゃんの事が大好きだったな」
「……」
「父さんも……――が小学校に入るのを凄く楽しみにしていたっけ……なんで、こんなに早く」
嫌な気持ちがどんどん大きくなっていく。
そしてもう一度、父を呼んだ時だった。
「おじいちゃんな……死んじゃったんだよ」
父が、涙を流して娘を抱き締めた。
それから――あっという間だった。
父が運転する車で連れて行かれたのは、祖父の家。
前に会った時よりもやせ細った祖母が、息子夫婦を出迎える。
部屋には既に沢山の人達が居た。
みんな、黒い服を着て、泣いていた。
祖父は部屋で寝ていた。
いや――実際には、祖父の亡骸が布団の上に横たえられていたのだが、少女からすれば何時ものように寝ているようにしか見えなかった。
花とか色々飾られている場所の前で、白い服を着せられていて、顔にも白い布がかけられてるとか、いつもと違う事も沢山あったけど。
最後によく見てねと言われて、祖父の顔を見れば、いつもの祖父の寝顔だった。
寝ているならきっと起きる。
少女は単純にそう思った。
なのにみんなはもう祖父と会えないと泣く。
どうして?
どうして?
祖父はここに居るではないか。
起きれば、またいつもの様に笑いかけてくれるではないか。
だから、少女は何度も祖父を揺さぶった。
起きて――。
起きて――と。
それが、よりいっそう周囲の哀しみをそそるとも知らずに、何度も何度も揺さぶった。
止めたのは母だった。
「やめて……――。もう、おじいちゃんは起きないのよ」
「どうして?」
「……死んじゃったからよ」
「……」
しぬって、何?
何か、違うの?
そんなに哀しい事なの?
少女には祖父は寝ているようにしか見えない。
何処か怪我をしたわけでもない。
ただ、寝ているだけなのに……。
「おきて! おきておじいちゃん!」
少女は必死に揺さぶる。
何度も何度も揺さぶる。
その姿に、周囲の泣き声が更に大きくなる。
死というものを理解出来ない少女の幼さと、純粋に祖父を慕う姿に涙が止まらなかった。
「みんなないてるよ! おじいちゃん!」
祖父は、みんなが笑っているのを見るのが好きな人だった。
だから、率先して楽しい事をしては周囲を笑わせていた。
少女もよく笑わせられた。
祖父は言っていた。
泣いているより、笑っている方が好きだと。
だから、きっと今みたいにみんなが泣いている姿を見るのは哀しいだろう。
しかし祖父は起きない。
寝ている事でみんなが泣いているのならば、起きなきゃいけないのに。
祖父は、いつまでたっても起きなかった。
それは、お坊さんと呼ばれる人が来て、なんだか難しい事を告げている時も同じ。
祖父の体が木の箱に入れられてからも。
お寺と呼ばれる呼ばれる大きな建物へと移り、広い部屋に木の箱が置かれても。
夜が来て、殆どの客達が帰り、親族だけが祖父の寝ている場所に残っても。
少女は、いつまで経っても起きない祖父の側に居た。
起きて、起きて。
日が沈み夜が来て。
窓の外の暗闇に怯えながら、少女は祖父の顔を撫で続けた。
いつもは温かい祖父の頬が冷たい。
次第に焦り出す気持ち。
早く起きて。
でないと。
でないと、何?
よく分からない気持ちを抱え、それでも早く起きなければと焦る。
「おきて、おじいちゃん」
その度に、周りの大人達が言う。
「おじいちゃんは……もう起きないの」
「そうだよ……おじいちゃんは死んじゃったんだ」
「ほら。もう冷たいでしょう? もう――ちゃんが声をかけても起きてくれないでしょう?」
なら、温めればいい。
他の人が呼びかければ良い。
けれど、周囲は泣くだけだった。
ねえ、しぬって何?
わからない。
冷たくなる事がしぬって事?
呼びかけても起きてくれなくなる事がしぬって事?
それとも――。
次の日、またお坊さんと呼ばれる人が来て、沢山の人達が来て。
そして祖父が入った木の箱に沢山のお花が入れられて、木の蓋がされた。
「なんでしめるの? おじいちゃん、でられないよ?」
釘が打たれ、小さな窓から祖父の顔を見ながら少女が聞く。
死を理解出来ない少女。
けれど、本当に理解出来なかっただけなのだろうか。
そうして祖父は、また別の場所に移されて、パカリと開いた大きな扉の中へと入れられた。
焼くのだと、聞いた。
だから、焼いて骨になる前の最後のお別れがされた。
でも、少女はよく分からなかった。
焼くって何?
お魚みたいに焼くの?
骨って何?
痛いことするの?
分からなくて……でも、祖父が心配でいつまで経っても祖父が入れられた扉の前から離れなかった。
そんな少女を父が外に連れ出した。
雨が降っていた。
それが、まるで空が泣いているように見えた。
自分を抱き上げる父も泣いていた。
「おとうさん、なかないで」
泣かないでと父の頬を撫でる。
「おじいちゃん、つかれてるの」
この前会った祖父は、曲がった腰を撫でては疲れたと笑っていた。
「でも、やすんだらきっとおきるよ」
――って、また自分の名前を呼んでくれる。
父の顔を見て、良く来たなと笑ってくれる。
しかし、父は泣きながら頭を横に振った。
「もう、起きないんだよ」
「どうして?」
「死んじゃったから……お別れなんだよ」
「しぬとおわかれなの?」
「そうだよ。そしてもう二度と、会えない」
「どうして?」
「――達とは、違う場所に行っちゃうからなんだよ」
「そうなの? でも、かえってくるよね?」
そう言うと、父が嗚咽を漏らした。
「いや……帰ってこれないんだよ」
「なら、わたしがいく」
「……できないんだ」
「どうして?!」
「それが、死ぬって事なんだよ。もう二度と会えない。もう……死んじゃったら、会えないんだ」
父の泣く声に、少女は空へと上がっていく煙を見上げる。
「おじいちゃん! おじいちゃんっ!」
あの煙が祖父に見えた。
そして、自分の手の届かない場所に行くように見えた。
何度も叫び、終には泣いてしまった。
そうして他の人達に呼ばれて、扉から祖父の入った木箱が載せられた台が出て来た時――そこには、白いものしか残っていなかった。
祖父の骨なのだと教えられたけど、少女は理解出来ずひたすら祖父を求めて泣いた。
しぬって何?
冷たくなる事?
呼びかけても起きなくなる事?
目の前から居なくなる事?
でも、少女は祖父を覚えている。
遊んでくれた沢山の記憶を持っている。
少女は写真の祖父に語りかけた。
「おじいちゃん、あのね」
いつもいつも、語りかけた。
すると、なんだか心が温かくなる気がした。
祖父の骨はもうお墓と呼ばれる場所に入れられたけど、そんなのは関係ない。
写真の中の祖父は変わらずほほえんでいる。
「おじいちゃん、今日はこんな事があったんだよ」
小学校に入っても、少女は語りかける。
最初は他の人達もそんな少女に習い、祖父の事を思い出しては話題に上らせていた。
けれど、いつしか年月を経ると共に少しずつ祖父の事が話題に上ることはなくなっていく。
それは、少女にとっても同じ。
成長すると共に少しずつ死を理解していった少女。
死は、実に少女の周りに溢れていた。
テレビで言っていた。
死ぬって事は、もう動かなくなること――すなわち、心臓が停止する事。
本に書いていた。
死ぬって事は、肉体が滅ぶ事。
お坊さんが言っていた。
死ぬって事は、あの世に行く事。
死ぬって事は――。
事故で死んだ親族もいれば、病気で逝った友人も居た。
そして、人はちょっとした事で死ぬ。
今この時は笑っていても、数分後にはどうなるか分からない。
少女は、祖父の写真に語りかける事はなくなった。
そうして祖父の写真は、少女の記憶と共に箪笥の奥底へと仕舞われていった。
「香奈?」
目覚めれば、母に抱かれていた。
父も、側に居た。
「恐い夢でも見たのかい?」
時計を見れば、まだ午前四時。
いつも一人で寝ている筈のベッドに両親がいる事実は、普通なら驚く事だろう。
しかし……香奈は何も言わず母の胸に顔を埋めた。
「香奈……」
何も言わず、母の腕に抱かれて目を閉じる。
大丈夫だと告げるべきだ。
けれど疲れ切った心は、ただこの温もりだけを望む。
そんな香奈に、両親は何も言わずに娘を抱き締めてくれた。
そして二度目の眠りに落ちた香奈が再び目覚めたのは、何時もの起床時刻頃だった。
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