〜第一章〜 邸の前の行き倒れ





それは、木枯らしの吹き荒ぶ秋の始めの事だった。






「……何かしら、あれ?」



今日も元気に賃仕事をして来た秀麗は、買い物の品を抱えて家に戻って来た所、家の門の前になにやら妙な物体を
見つけた。恐る恐る近づき…………ほどなくそれが人である事を、しかも行き倒れている感じなのを確認する。





……なにやら、今年の熱い夏の日の時の事を思い出す光景である。





とは言え、あの時は、フッサフサのクマが落ちていたが、今回はそれよりももっと小柄で、もっと華奢な感じの少女だ。
間違っても、素は野生の鹿の如き雄雄しい美貌にも関わらず、帰る数日前まで髭と髪をそらなかったあの男とは違う。
と、そんな麗しく優しい思い出は少々置いておき、形はボロボロの埃まみれだが、秀麗はクマ男を拾った時と同じく、
とりあえず声をかけてみる事にした。クマ男の場合は男で、しかもある程度体力があったが、目の前の少女はどう見ても違う。
いうなれば、クマ男――もとい燕青を体力ゲージ120%、戦う気満々のクマと例えるならば、この少女は野山にひっそりと、
儚げに咲く清楚可憐な一輪の花だ。何かあるのなら事は早急を要する。



「もしもし、あの、大丈夫?」



秀麗は軽く、うつ伏せに倒れている少女を揺すった。
夏バテであるのならば、即、砂糖水と塩水を調達するが、今は木枯らしが吹き荒れる秋。
気温も何時もよりは暖かいとは言え、今年の悪夢の様な夏とは雲泥の差の肌寒さ。
このまま此処で倒れていたら風邪の一つや二つ、引いても何ら可笑しくは無い。しかし、少女は一向に反応を示さない。



「と、とりあえず中に」



秀麗はよっこらしょ、と買ってきた物を一先ずその場に置き、少女の腕を肩に掛けていく。
脱力した体は、ズッシリとした重みを秀麗の華奢な肩に味合わせる。下手をすれば、そのまま一緒に転んでしまいそうに
なるが、それでも秀麗は一歩一歩慎重に先を歩いていく。こうしてみると、燕青の時はかなり楽だったと思う。
あの時は、空腹であったものの、ご飯を食べさせてあげるから、その一言で一気にその体力ゲージを満タンにし、
飛び込む様にして自らの足で屋敷の中に飛んでいってくれた。秀麗は今改めて燕青の有難みをヒシヒシと感じた。



「も、もう少しだからね」



何時も歩きなれている邸宅への道をヨロヨロと歩きながら、秀麗は気を失い続ける少女に声を掛けた。
例え聞こえていないとはいえ、こうして少女を思いやる所が秀麗らしかった。


そうして、数分後。秀麗は無事に少女を邸内の客室へと運び込んだのである。











今日は4日に一度の御馳走の日。
静蘭は何時も通りに、山の様な材料を抱える楸瑛と絳攸と共に見た目はボロボロだが、 そこに住まう者達は
彩雲国一の暖かさを持つ邸宅へと戻ってきた――が、材料が今到着したにも関わらず、
既に何やら漂うその料理の良い香りに、静蘭はふと首を傾げる。



「可笑しいですね?今日は来客の――」



いや、待て。確か今年の夏、似た様な光景が……。
静蘭は、優雅ながらも迅速な動きで楸瑛と絳攸を置き去りにしたまま、匂いの発信源へと足早に向かう。
そして、それがあの男ではありません様にと全力で願いつつ、もし居たらお嬢様の隙を見て邸宅の外に 投棄てて来ようと
はっきりと心の中だけで宣言しながらその扉を開けた。



間も無く、静蘭の目は驚きに見開かれる。




――そこに、その来客用の部屋で申し訳無さそうにしながら、けれどしっかりとした箸運びで食事を取っていたのは、
自分の知る腐れ縁の男――燕青ではなく、見知らぬ一人の少女だった。



年齢の頃は見た所、12、3歳。何処で手に入れたか不思議な渦巻き眼鏡をつけ、背中まである髪を両側で
三つ編みにしている。燕青でなかった事にこの世の神々に大いに感謝しつつも、静蘭はその見知らぬ少女に
ふと首を傾げる。お嬢様の友人だろうか?
秀麗は、賃仕事で仲良くなった友人等を時々邸に呼んでは共に食事をする事があった。
もしかしたら、その類の縁の少女かもしれない。しかし、嫌に燕青の時を思い出させる光景である。



そこに、秀麗が隣室から料理を盛り付けたお皿を持ってやってきた。
帰ってきた家人の姿を認めると、花の様な笑顔を浮かべて労いの言葉を掛けてくる。



「お帰り、静蘭。今日もご苦労様。お腹空いたでしょう?幾つか料理は作ってあるから、先に食べて……あら?
そういえば、今日は4日に一度の御馳走日だけど、藍将軍と絳攸様は?」



鴨が葱ばかりか、調味料と鍋を――ではなく、4日に一度の御馳走日である今日は、何時もあの二人が大量の食料を
持ってやって来てくれる。そのお陰で材料費は浮き、家計も大助かりの毎日となっている。しかし、静蘭の後ろに何時も
見える二人の姿はない。今日は用事で来れなかったのかと思ったその時、静蘭の後ろの扉が開き、鴨葱、じゃなくて
大量の食料を持った楸瑛と絳攸が入ってきた。が、二人とも、静蘭を通り過ぎ、食卓でご飯を食べている少女を見て、
固まった。きっと、夏の時の事を思い出しているのだろうと秀麗は即座に見当をつける。
但し、今この場でご飯を食べている少女は、燕青のあの豪快な食べ方とは違い、見ていてウットリするほど繊細な箸使いをし、
また申し訳無さが前面に滲み出している。何度も言うが、燕青の時と殆ど似た状況だが、中身は正反対だった。



「お嬢様、この方は?」


「屋敷の門の前で行き倒れていたの」



邸の前で倒れていた。それも同じだ。いや、状況はクリそつだが、人物が違う。
目の前の少女は燕青ではない。あんなクマ男では決して無い。



「で、何とか屋敷に運んで静蘭達が帰ってくる前にお医者様を呼んで看て貰ったら、
歩き過ぎの働き過ぎの過労って言われて。それでお薬を貰ったから、飲む前に
まずは食事をと思って」


「そうですか、それは結構な事です」



等と言いながら、静蘭は「よし、違う!!」と、心の中でガッツポーズをかます。
もし燕青が此処で見ていたら、「そこまで俺の事嫌いか?」と、さめざめと泣き崩れていただろう。
とは言え、静蘭も静蘭で、この夏の燕青との思わぬ再会は本当に驚き物ではあったが、実を言うと、
そんなに嫌な物ではなかった。が、奴が沢山の凶者とゴロツキに追い駆けられてくれたせいで、自分は楸瑛に
借り出され、お嬢様と引き離されてしまった恨みは忘れない。








加えて、
奴はっ!!









日がな一日、宮廷で男装をして働くお嬢様とずっと一緒にいたのだ。
自分が可愛くも無い、寧ろウザイ大将軍二人に追い回されていた間、奴――燕青は自分の愛しいお嬢様と二人っきりで
居たのだ(←黄尚書や景待郎眼中に無し)本当に、抹殺……いや、今からでも遅くは無いかもしれない。
武術面では叶わない物の、なに、人を殺るのはそれだけが全てではない。
この、己が公子だった時に他の愚兄又は愚弟の愚行で散々身に付いた知識と実行力で……。




「……らん……静蘭っ!!」



「あ、何でしょう、お嬢様」



どれほど恐ろしい事を考えていても、愛しいお嬢様の声一つで現実に戻る静蘭。
彼は、結構現金な男かもしれない。



「あ、ううん、特に用は。唯、静蘭が何処か遠くに行っちゃいそうで」



と言うか、心此処に在らずと言った感じだった。物は言い様。加えて、不安そうなその表情と仕草は、例え他の者達全てが
10人並と判定し様とも、お嬢様以上に美しく清らかで可憐な女性は居ないと思っている静蘭の心を激しく揺さ振り、
恋情を大いに掻き立てる。もし、此処に自分と秀麗だけならば、まず間違いなく、自分は秀麗を抱きしめるだろう。
但し、怖がられない様に偶然を装って。こういう時、公子一優秀と言われた己の回転の速い頭が愛しくなる。



「お嬢様、私は何処にも行きませんよ。ずっと一緒に居ます」


「静蘭……」



端から見れば、それは正しく麗しき恋人同士の図。
例え、秀麗の方は恋愛に疎くて、今も親愛の情だけしかその内に無くても。
そんな様子を、静蘭が怖い妄想をした際にバックに吹き荒れた猛吹雪で凍り付き、今ようやく、静蘭が放ち出した
暖かいオーラで解凍された楸瑛と絳攸は、しみじみと呟く。



「秀麗殿は主上だけではなく、静蘭さえもその手に掴み、転がしているね」


「……ああ。しかも、本人が無自覚という所が怖いな」



と言うか、もし秀麗がこんなにも素直で可愛らしくて純真でなく、自分を慕う者達を片っ端から利用する様な悪女だったら
……彩雲国はまず間違いなく滅亡しているだろう。



「いや、でも、それはないな。主上も静蘭も、秀麗殿が秀麗殿であるからこそ惹かれたんだと思うし」



例え、美しい容姿を持っていなくても、貴族の出でありながら貧乏生活に身を窶しながらも、それでも常に前を向き、
笑顔を絶やさず何事にも一生懸命な秀麗だからこそ、今、秀麗に惹かれる者達は魅了されてしまったのだろう。
それは極基本的な事で、とても大切な事。
そして、奇跡の様な事。



楸瑛と絳攸は互いに目配せをし、そして小さく笑った。



自分達もまた、そんな秀麗だったからこそ、こうして後宮を退出し町に戻った後も、
親しく付き合っているのである。







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