〜第十七章〜傷心、そして新たなる決意〜







途中何度も転び出来た傷よりも、空に向かって伸びる枝に引っ掛けた傷よりも、
心に出来た傷は何倍も大きく、伴う痛みも鋭い物だった――








何度も転んだせいであちこちに傷を作り、泥だらけとなった服をそのままに、秀麗は
ようやく戻って来た私室の机で涙を流し続けた。我慢していた嗚咽も、大きな泣き声となって
室に響き渡る。しかし――何時もはすっ飛んでくる静蘭と邵可は此処には居ない。







「あ――――――――っ……っく……う…うぅ……」






既に声は枯れ、頭も痛みを訴える。
けれど、それでも流れる涙は留まる事を知らず、込み上げる嗚咽も止まる事がなかった。
枯れる事のない泉の如く溢れ出る悲しみ、そして苦しみが、秀麗を支配する。








『本当に、貴方には失望しますよ』






『秀麗、早く帰れ、邪魔なのだ』








そう言って、静蘭達は冷たい表情の上から、嘲笑を浮かべた。





そして――










『こんなものっ!!』










笑われ、酷い言葉を投げつけられても、せめてもと思い、作って持って来た饅頭を渡そうと
差し出した途端、鋭く払われた。打たれた手は直ぐに熱を持ち、饅頭は無残にも床に
零れ落ちた。静蘭達はそれを踏み潰して言った。








帰れ、帰れ、帰れ、帰れ、帰れ、帰れ、帰れ、帰れ――――――――――――――っ!!










気が付いた時には、自分は華樹の寝台に寝かされていた。
気を失ったと告げられた。静蘭達は既に居なかった。華樹と艶妃の表情を見れば、
どの様にして立ち去ったのかは直ぐに解った。最初から―――――――最後まで
煙たがられ、嫌悪された。大切で、本当に大好きな人達に……。でも、一番心を深く
抉り取ったのは、昔から憎んでいると言う態度と言動、そして仕打ちだった。
その現実に耐えられなくて、蒼麗を待たずに自分は此処に戻って来てしまった。
此処に辿り着いて直ぐに思い出したが、それでも傷ついた心は戻る事を良しとせず、
出来たのは、こうやって泣くだけだった。たぶん――蒼麗は傷ついて戻ってくるだろう。
そして……きっと、自分を責める筈だ。静蘭達と同じ様に。だって、置いて帰ってしまった。
待っていると約束したのに、約束を破ってしまった。絶対に、嫌悪される。





「如何して……」





何故、こんな事になってしまったのだろう?
静蘭達との3週間ぶりの再会に期待に胸を膨らませて居たと言うのに―――――――
ようやく会えた静蘭達は、3週間前に会った時とはまるで別人のようだった。
明らかに自分を憎んでいる感じで………………いや、憎んでいた。






如何して?一体何があったの??






















――――――違う


















「違う……私が……悪いのよ……」





そうだ。静蘭達は自分を憎んでいるのではない。
自分に酷く怒っていたから、そう見えただけなのだ。憎んでいる様に見えたのは
全て自分の被害妄想なのだ。自分の罪を認めようとせず他に責任転換してしまう自分の……
きっと静蘭達はそれに気が付いたのだろう。そんなずるい気持ちに。だから、あんな風に……。
だから、全部、自分が…………でなければ、静蘭達があのように振舞う筈がない。
自分にとても優しくしてくれた静蘭達が――――――





「そうよ……私が……全部……」





全部自分が悪い。だから、嫌われる。だから、憎まれる。
そして……数刻もせずに、置いてきぼりにした蒼麗が帰ってきて、憎まれる。





秀麗は絶望した――――――――その時だった。








ドタ
バタ




ドタ



バタドタバタっ!!












秀麗さん、体調は大丈夫ですかっ?!






心底心配そうな表情を浮かべた蒼麗が、息も荒く室に飛込んで来た。







秀麗は、目を見開いた。








――どうして?









「ああっ、秀麗さん具合が悪いんだから寝てなくちゃ――――って、如何したんです?!
泣いていたんですかっ?!」



蒼麗が駆け寄ってくる。懐から手拭が取り出され、それで優しく頬に流れる涙を拭い取っていく。
秀麗は未だに口が利けなかった。しかし、心の中では問い続けた。如何して―――――と。
如何して、蒼麗は自分に嫌悪の眼差しを向けないの?侮蔑の言葉を吐かないの?
如何して、こんなにも優しくしてくれるの?


しかし、そんな疑問をよそに、蒼麗はひたすら秀麗の体調を心配し、てきぱきと動き回り、
終には秀麗の体を寝台に寝かせてしまった。




「駄目ですよ、体調が悪いんですから寝てなくちゃ―――――って、体調が余り良くないのに
連れて来てしまった私が一番駄目ですね……こめんなさい、秀麗さん。
全然気がつけなくって……」



「蒼麗ちゃん……どう…して…?」


「え?」


「どうして……こんなに優しく…………怒ってないの……?」


「怒る?あ、もしかして置いていかれた事ですか?」



蒼麗の言葉に、秀麗はギュッと目を瞑った。
きっと、次にその口から発せられるのは―――――紛れも無い、侮蔑の言葉。






「仕方が無いですよ、秀麗さん、具合が悪くなってしまったんですし」







……予想だに……しない言葉だった。いや、そういえば蒼麗は此処に来てからずっと
自分が体調を崩したと言い続けていた。秀麗は目を開き、蒼麗に問いかけた。



「ねぇ、蒼麗ちゃん。私が体調を崩したって…一体……」


「え?艶妃様が言ってました。秀麗さんが体調を崩したから先に帰ったって」



その言葉に、秀麗はハッとした。


そういえば、自分は此処に戻って来る前に、艶妃と華樹に頼んだ。
言わないで、静蘭達との事は決して蒼麗には、と。しかし、当然ながら蒼麗は如何して
自分が先に帰ったのか疑問に思い、聞いたのだろう。そして、艶妃は――自分との
守ってくれたばかりか、先に帰ったのは仕方が無かった事だと思わせられるように、
体調が悪いと言ってくれたのだ―――きっと!!秀麗の瞳に、再び涙が溢れ出す。



「秀麗さん?」


「ううん、私の方こそ、先に帰ってごめんなさい」


「そんなっ!気にしないで下さい。今は、体調を直す事だけ考えましょう。
お腹、空いてないですか?何か胃に優しい物を作って来ます」



水で濡らした手拭を絞り、秀麗の額に乗せると、蒼麗はパタパタと室を出て行った。






「――――ありがとう、蒼麗ちゃん」







また、自分は蒼麗に救われた。













蒼麗が自分の為に作って来てくれた料理は、鶏肉と野菜が入った雑炊と、魚の煮付け、
浅漬けの胡瓜、そしてデザートには杏仁豆腐と豪華なものだった。湯気の立つ雑炊を
レンゲで掬い、口元に運ぶ。ダシが良く取れ、しっかりとした味付けのそれは、
すんなりと胃に入り、優しく染み込んで行く。







――美味しい








正に、その一言に尽きた。



同じく、魚の煮付けも、浅漬け、そして杏仁豆腐も激しく舌鼓を打つ代物だった。






「如何ですか?」



蒼麗が、取り替えてきた水の入った桶を持って室に入って来た。



「とても美味しいわ、ありがとうvv」



それは、本当に自然に出た笑みだった。そんな秀麗の笑顔に、蒼麗は嬉しそうに微笑み返す。
その笑顔に、秀麗は心苦しくなる。本当は――自分は体調を崩して戻って来たのではない。
しかし、静蘭達の事を隠し、尚且つ艶妃の気遣いを無駄にしない為には自分が病人を装うしか
ない。特に――静蘭達の事は、蒼麗には隠し通すつもりだ。この心優しい少女を、下手に
心配させてはいけない。



「秀麗さん、今日はゆっくりと休んでくださいね。掃除とかは私がやりますから」


「え、あ、でも――――」




「いいですか―――――っ!絶対に休んでいてくださいね〜〜」







静止も虚しく蒼麗は、あっと言う間に室を出て行ってしまった。



残された秀麗は暫く呆気に取られていたが―――――間も無く、静かに頭を下げた。















「ありがとう」













そうして、残りの料理を全て平らげる。
何だか、お腹が満腹になるにつれて、元気も出て来た様な気がする。
いや、きっと蒼麗の料理が自分に元気を与えてくれているのだ。考え方もドンドン前向きに
成っていく。――今なら、もしかしたら大丈夫かもしれない。そうして、食べ終えた食器を
寝台の横にある机の上に置くと―――秀麗は、戻って来た持前の元気に後押しされる様に
して、蒼麗が戻って来て以来宙ぶらりんのままにしていたそれについて、考えを再開させた。






それは――――静蘭達の事だ





余にも突然の事態に、混乱し、投げつけられる言葉と眼差しに心を傷つけられ、
此処に帰って来た後も興奮状態で冷静に考える事が出来なかった。――が、今は違う。
頭は、蒼麗の気遣いと、作ってくれた料理のお陰で、普段の冷静さを取り戻して来ている。
今なら……少しずつ、ゆっくりとではあるが、考えられるかもしれない。
今までの出来事―――静蘭達の事について。




「まず、次に静蘭達に会った時には……今回の事を何とかして謝らなきゃね」




今日の再会で、静蘭達が咎め続けた自分の否。その全てを、まず一番に謝罪すると秀麗は
決めた。その為には、今日の出来事を一つずつ整理する事が、何よりも重要な事だった。


しかし、それは――必然的に静蘭達に言われた事、された行為を何度も思い出す事とであり、
実際に思い出していく中、何度も涙を流す羽目となる。



けれど、だからと言って止めてしまう事は出来ない。



だって、何時までも逃げ続けてはいられないのだから。



よって、蒼麗の優しさを思い出す等して、必死に乗越えていったが―――――



それでも




終には静蘭達の侮蔑の言葉、嘲笑、冷たさが勝り出し、秀麗の心は再び悲鳴を
上げて血を流し始めていく。



最早、それ以上の冷静な思考が無理なのは、一目瞭然だった。











「ごめ…んなさ……い……」







再び、脳裏に浮かぶ冷笑を浮かべる静蘭達に、秀麗はひたすら謝り続けた。
解ってる。私が悪い。私が全て悪い。だから、静蘭達は――――――。
湧き上がる自己嫌悪に、秀麗はそれ以上考える事が出来なくなった。
それどころか、呼吸すら苦しくなってくる。けれど、それでも容赦なく静蘭達の言葉が甦って行く。
止め様としても―――――もう、止まらない。暴走するっ!!










『何故此処に来たんですか』







『そなたは身の程知らずだ』







『帰れ、邪魔だ』







『秀麗、君は此処には不必要だ』







『女官でもないから……出て行ったほうが良い』












気がつけば、目の前が大きく揺れていた







「―――――――っ」





それが激しい眩暈だと認識した時には、既に意識そのものに異常を感じ始めていた。
秀麗は蒼麗を呼ぼうとするが、口から出るのは荒い呼吸だけだった。





「はぁ…はぁはぁ……」





秀麗は寝台から出て、室の外に向かった。





しかし、後もう少しという所で――最も思い出したくない言葉が終に蘇ってしまう。










『私は昔から貴方が疎ましかったんですよ』





















――――ドクンッッッ――――

















心臓が大きく脈を打つ。と、同時に体がぐらりと揺らぎ、地面へと倒れ込む。
途中、何時も使っている勉強机に体をぶつけ、机の上の物が床へと散らばった。
しかし、秀麗の意識は別の方を向き続ける。





「……なさい……い……なさ……」






あれは――静蘭の言葉。




それまで、必死に違うと否定していた「静蘭達は自分を憎んでいるのかもしれない」と言う
思いを、残酷にも肯定した言葉。是が非でも、思い出したくなかった言葉だった。
静蘭達が自分を憎んでいないと必死に思う今はもとより、この先永遠に――――っ!!







……目の前が……段々と暗くなって行く。







意識も急激に薄れてきた。








その時――――――








暗くなる視界に、それは写り込んだのだった。




それが何であるかを認識した途端、症状は改善へと向かい出す。
ほどなくして視界が明るくなり、息苦しさは嘘の様に無くなった。その回復ぶりに驚きつつ、
またその代物に眼を見開きながら、秀麗は恐る恐る腕を伸ばし、それを掴み取った。







シャラン……――と清廉な音が鳴った。









「――これは」




それは、髪飾りだった。
赤い石の嵌った繊細な細工のもの。けれど、長い年月を経ている事が一目で分かる古ぼけた
物だ。値打ちは……それほどどころか、殆ど無いだろう。しかし――秀麗にとっては掛け替え
の無い宝物だった。だってこれは、母が無くなってお金も全て持ち逃げされたその年の
誕生日に、父と静蘭が自分の為に必死にお金の工面をつけて贈ってくれた物なのだから。





床に座り込んだ秀麗は暫く無言でそれを見詰め―――終には、この宝物に含まれる優しい思い出ごと
抱締める様に、胸に抱いたのだった。









すると如何だろう―――――!








驚く事に、今まで思い出す事が半ば出来なくなっていた静蘭や邵可、そして劉輝達との
楽しく優しい思い出が、次々と甦って行くではないか!!




静蘭達の言葉に、消えかけていた幾つ物大切な思い出。
例え、どんな豪華な金銀財宝でも換える事の出来ない―――自分の宝物。
その思い出の皆は、とても優しくて……怒っていても……その何処かに優しさが含まれていた。
どんなに怒っても、一方的に侮蔑と嫌悪に満ちた言葉を吐いたする事は決してなかった。
そうだ、何故忘れてしまっていたのだろう?何故、気がつけなかったのだろう??





自分が知る――共に生きてきた静蘭や父、そして付き合い自体は短いが、その短い間に
色々な経験を共にした劉輝達は、決してあんな心無い言葉を吐く人達ではないと言う事に。
また、自分をとても愛してくれていたと言う事に!!







「そうよ……だって……静蘭達は……とても優しくて……」






その言葉を後押しする様に、秀麗の脳裏に、3週間前の事が思い出されていく。
記憶の中の二人は、最後まで自分と、蒼麗の身を案じてくれた。そして、なるべく早く終る様に、
早く此処に帰って来れる様に頑張ると、笑顔を向けてくれた。また、出来るだけ暇を探しては
顔を見せに帰ってきてくれると言ってくれたのだ。――とは言え、それは状況次第によって
大幅に変わってしまう為、正式に確約する事は出来ず、その事については秀麗も当然ながら
納得していた。もしかしたら、完全に事態が収拾するまで全く帰って来れないかもしれない、と。
でも――――それでも、手紙だけは毎日だすと。それが駄目なら誰かに託を頼むと、
二人は約束――確約してくれたのだ。




そう、約束してくれた!!帰って来れなくても、手紙だけは毎日くれると……え?………手紙……??





ほどなく、秀麗はそれに思い当たり――ハッとした







それは、記憶の中の約束と、現実の違いだった








「……そう……確かに……手紙をくれるって……約束、したわ。………そう……約束…
……でも………」









実際は










実際には―――――――――――――手紙は来ていない。







いや、始めの内は来ていた筈だ。でも、此処最近は――







秀麗は机に駆け寄り、今まで父達がくれた手紙を取り出した。
そして、一枚一枚日付を確かめていき――気が付いた。最後の手紙の日付は、
2週間前で止まっていた。




「2週間、前」




思い出してみれば、その日は、静蘭達の連絡が一切無くなった日。
そう、音信不通はその時から始まっていた。その事に思い当たり、秀麗は困惑する。



「一体、これは……如何言うこと?」



手紙が止まって2週間。2週間も連絡がなかったなんて。
ならば託はどうだろうかと思い出してみるが、それも思い当たらない。
やはり、2週間前で全ての連絡が止まっている。



「そうだ。そういえば、私が不安になりだしたのも、この頃から……だった……」



何時も来ていた連絡が途絶え、この頃から自分は落ち着かなくなり始めた。
寂しくて、悲しくて、辛くて……そうだ。それらの思いは、静蘭達と離れている日が
長くなって来たから強くなり出したと思っていたが、実は違ったのだ。それらは、静蘭達から
何時も来ていた手紙が来なくなったから………会えない寂しさを包み込み癒してくれた
手紙の存在が突然無くなったから強まったのだ。そして、強まったそれらの負の感情は、
他の全てを遠くに押しやり、思考力を低下させ、終には此処最近手紙が来ていたか
どうかさえ解らなくさせた。




今から考えてみれば、手紙の届かなくなったこの2週間は可笑しい事ばかりだった気がする。
今までは、どんなに忙しくても、父と静蘭は必ず文を出してくれた。けれど、2週間前から
それが全く無かった。そして今日再会した時、静蘭達はまるで別人の様になっていた。
でも、2週間前までは手紙も来て、普通だったのだ。つまり――この空白の2週間の内に
何かがあったと言う事になる。文を出せず、あまつは静蘭達が別人の様に
なってしまう何かが―――――





「――きっと、そうよ。だって、そうでなければ、静蘭達があんな風に言う筈が無いもの!」





秀麗は決心した。
明日、もう一度静蘭達に会おう、と。きっと、何かとんでも無い事が起きているに違いない。
でなければ、あんなにも自分を大切にしてくれた人達が、あんなにも優しい人達が、
あんな酷い事を言う、又はする筈がない。昔から、憎んでいると言う態度を、言動を、
仕草をする筈がない!!














けれど…………











それでも、そう思う反面、やはり心の片隅に不安は残った。
もし、何も無くて……あの酷い言葉が、静蘭達の本音だったとしたならば。
昔から憎まれていたとしたならば……。もしかしたら、本当に静蘭達は自分に失望したのかも
しれない……………………いや、それだったら、謝る。
許してくれるまで、土下座してでも謝る!!でも、もし今の静蘭達が何か別の要因によって
何処か可笑しくなっていたとするならば。3週間前の、最後に手紙をくれていた2週間前まで
の静蘭達が本当の静蘭達だとするのならば。自分は……何とかして静蘭達を元に戻す。




「その為には、会いに行かなきゃね」




出来るだけ早く。そう、明日にでも。だから……泣いてなんていられない。




秀麗は、持っていた髪飾りを頭につけた。
赤い石がキラリと光る。





「絶対に……負けないわ」







秀麗の瞳に、既に涙は無かった。











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