〜第二十一章〜壊された思い〜








目の前で、秀麗の首を絞める両手にどんどん力を入れていく主上を、楸瑛はぼんやりと
見続けていた。霧の中に沈められた意識は、既に正確な思考と判断をなさず、目の前の
光景がどれほど最悪な物であるのかさえ気が付く事は出来ない。けれど……楸瑛の中の
奥底に抑えつけられる最後の理性は、必死に訴え続けていた。






何をしている………早く……
ハヤクトメロ!!






声が枯れる程に、血を吐く様な叫びは吐かれていた。
しかし、今、再び絡め取られた精神はその声を聞こうとはしない。
一度は……正気を取り戻す糸口に見つけたというのに……。けれど、それは秀麗を
殺す様に指図する声に消され、今や見つける事が出来なかった。
いや、例え見つけたとしても、今のまま――意識が支配されたままでは、
その糸口を掴む事はまず無理だろう。







……イダ……







オネガイダ……どうか……







私の声をキイテクレ!!







深い霧の中に囚われる楸瑛の精神よりも、更に奥底に生み出された闇の中に
囚われる理性は、必死に叫び続ける。その声が、何とか“自分”に届く様に。
唯それだけを願って……。
















『絳攸様、私に勉強を教えて下さい!!』



『言っておくが、俺は厳しいぞ』




そんな自分の言葉に、真剣な眼差しで頷く少女。
その少女に……自分は、嬉しそうに笑いかけた。



憎むべき少女に、自分は――いや、唐突に見てしまった過去の自分は……少女を
憎んでなど居なかった。そして、最後まで抵抗していた。少女を憎み、殺す事を己の
真の願いだと思い込ませようとする何かに―――。


でも、今は何も考えられない。しっかりと意識を絡め取られ、まるで操り人形の様に操られる。
自分の意思では何一つ動かせない。いや、自分に意志がある事すら解らない。
生きながらにして死んでいる様だった。絳攸は、ぼんやりと目の前の光景を見る。
いや、見ているのではなく、勝手に写りこんでいる。王が、もう憎いのか憎くないのかさえも
解らなくなっている少女を、その手で殺そうとしている光景が。気が付けば、奥底に
沈められた声が、今まで以上に止めろと叫び続けている。その少女を助けろと、王に
そんな事をさせるなと訴え続けている。けれど――思考や判断はおろか、指一本自由に
動かせない自分には何も出来ない。いや、何かをしようと思う事すら考え付かない。



絳攸は唯、目の前の光景を見ているだけ。いや、写しているだけだった。



だから――絳攸の奥底に閉じ込められた最後の理性は願う。



今この時、奇跡が起きる事を――









そして――願うと同時に――――





楸瑛と絳攸2人の最後の理性は、それぞれ最後の最後まで戦い続ける。



劉輝の中の最後の理性が、今正に必死に戦い続けているように。

















殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せっ!!






その言葉だけが、劉輝の中に木霊していた。
そして、その言葉が響く度に、劉輝の手は力を込めていく。
少女が苦しがっても、顔を白くさせていっても、劉輝には何の感銘も与えなかった。
それどころか、強固に支配された意識は、その支配主に感化され狂気を満たしていく。
その苦しむ顔が――何よりも楽しかった。何よりも、嬉しかった。





もうすぐ……もうすぐだ!!






もう少しで、この少女の首は完全に絞まる。
そしてそのまま力を入れれば、この細い首は心地よい音を立てて折れて行くだろう。
それこそ、自分を包み込むあの人の望み。あの人の為に、あの人の望みを叶えなければ。
だって、自分は人形。自分はあの人の望みを叶える忠実な生きた人形なのだから。




「もうすぐ……もうすぐだ……」




もうすぐ、この少女は死ぬ。この憎い少女は自分の前から消える。あの人の前から消える。
そう、後もう少しで――







――――――――?!







頬に、何かが触れる感触を感じた。温かくて……とても優しいそれ。
一体何かと視線を移すと――何時の間にか、自分の手を引き離そうとしていた
秀麗の手の片方が、自分の頬に触れていた。それは優しく、愛おしむように。
劉輝は、驚きに目を限界まで見開く。






「な……に……」




頬を優しく撫でる様に触れる手に、劉輝は秀麗の顔に視線を向け――その顔に笑みが
浮かんでいる事に、言い様の無い衝撃を受けた。その笑みは、本当に優しく、
慈愛の溢れるものだった。苦しい筈なのに。今も首が絞まり、呼吸がままならないと言うのに、
秀麗は本当に綺麗な笑顔を浮かべ続ける。と、その口が動き――言葉を紡いでいく。
その言葉に、劉輝は、楸瑛は、絳攸は大きく息を呑んだ。


























『絶対に…………私が……助けるから……』


















呼応する様に、劉輝達の中で何かが爆発するのが感じられるのと同時に、
その絶叫は響き渡った。















『止めろおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!』
















途端、劉輝達を戒める力がほんの一瞬だけ弱まった。
それとほぼ同時に、劉輝は秀麗の首から手を離し――後ろから伸びてきた2本の手に
よって、秀麗から引き離される。それは、楸瑛と絳攸の手だった。秀麗から離れ部屋の隅に
まで辿り着くと、それぞれ、荒い息をつき呆然とした。一体何が何だか解らなかった。
何故こんな事をするのか。何故こうしようと思ったのか。解るのは、とにかく秀麗から
離れなければ。自由を取り戻したこのほんの僅かな間に、少しでも秀麗を安全な場所に
遠ざけなければ。唯、それだけだった。しかし――ほんの僅かだけでも取り戻した自由は、
再び這い上がってきた物に絡み取られ、あっと言う間に支配されていく。
だが、心の奥底に沈められていた最後の理性も応戦し、その余波を直に浴びた
劉輝達は苦悶した。




一方、ようやく新鮮な空気を肺一杯に吸い込む事が出来る様になった秀麗は、暫くの間、
動く事はおろか、まともな思考すら行えなかった。勿論、劉輝達が苦悶する事にも
気がつけない。生命的危機的状態に陥った体は、他の全てを遮断し、唯回復に努めるのみ。
ゴホゴホと咳き込み、何度も息を吸っては吐く。それを何度か繰り返し、ようやく呼吸が
正常になった頃――ようやく秀麗は、苦しむ劉輝達に気が付いた。
未だにふらつく体で、劉輝達に駆け寄ろうとする。






「……劉輝!藍将軍!絳攸様っ!!」








そして、後もう少しでその体に手が触れかけたその時――執務室の扉が勢いよく開いた。
現れた人物達の姿を認めると、秀麗は息を呑んだ。






静蘭……父様……っ!!






もう一度会うと決めて此処にやって来て、一番最初に会おうと探した物の、最後まで
見つける事の出来なかった二人。その二人が今、無表情な顔で入り口に立っていた。
思わず秀麗は、二人の元に駆け寄っていく。




「静蘭、父様――」












バンッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!













空気を切り裂く様な鋭い音が、執務室一杯に響き渡った。











大きすぎる威力に、秀麗の体はまるで鞠の様に床を転がっていった。
そして、そのままの勢いで執務机にぶつかったのだった。髪飾りが衝撃で外れ、
コロコロと静蘭の足元に転がっていく。叩かれた頬は直ぐに熱を持ち、晴れ上がった。
昨日手を払われた時とは比べ物にならない程の威力が齎した痛みに、秀麗は思わず
呻き声を上げた。痛い。たまらなく痛かった。秀麗は恐る恐る顔を上げ――自分を
殴りつけた相手を見た。――静蘭は……恐ろしい形相をしていた。






「この……アマっ!!」






何時もの丁寧な口調からは考えられない様な言葉だった。また、そこから発せられる殺気に、
秀麗は声にならない悲鳴を上げる。静蘭達に何かが起きてこうなっていると信じていても、
これは余りにも恐ろしすぎた。



「性懲りも無く此処に来て……それどころか、主上達を苦しめて!!」


「あ……私は……」



違う。自分は苦しめたかったのではない。助けたかったのだ。
しかし、静蘭の殺意はどんどん濃さを増す。



「……てやる……私が殺してやるっ!!」


「せ、静蘭っ」



怖い、今の静蘭は昨日とは比べ物にならない位に怖かった。
見る見るうちに巨大化する恐怖に、秀麗は少しでも距離をとろうと後ずさる。
しかしその分、静蘭が前に出ていく。まるで、獲物を追詰めるかの様に歩を進める静蘭に、
秀麗の体はガタガタと震えだす。



「や……いや……」






カツン―――






足に何かが当った感触に、静蘭は歩みを止めた。
そのままゆっくりと、自分の足元に転がるそれに視線を向ける。転がっていたのは――
赤い石のついた髪飾り。秀麗が髪に付けていたものだった。そして、静蘭と邵可が幼かった
秀麗に贈った物。静蘭は軽く目を見開き、それを見つめた。その様子に秀麗は、もしかしたら
静蘭が何時もの静蘭に戻るきっかけになるかもしれないと思い、口を開こうとした。
――が、再び恐ろしい表情になった静蘭が、いち早くその髪飾りを踏みつける。パリンッと
言う音が鳴った。グリグリと一通り踏みつけられ、再び足が離されたそこに残ったのは――
無残にも壊れた髪飾りだった。









「――――――――――――っ?!」









秀麗は両手で口を覆った。でなければ、絶叫していた。
大切な、大切な思い出の品が……それを贈ってくれた者の手によって今、無残にも
破壊された。その事実に、秀麗の心は深く底の無い悲しみと絶望が支配する。





「あ……あ……」






「はっ!!余程ショックだったようですね。良い顔をしてますよ!!」




静蘭は笑った。嘲笑だった。秀麗の絶望に満ちた顔は、正に極上の酒よりも甘美なものである。
もっと見たい、もっとその顔を歪めたい。もっと絶望する顔が見たかった。
そんな歪んだ思いを叶えるべく、静蘭はもう一度壊れた髪飾りを踏みつけようと
足を動かしていく。













ズキンッッッッ!!









髪飾りの上に足を置いた瞬間、まるで――激しい雷に打たれた様な衝撃が体に走る。
同時に、鋭い痛みも襲った。





「――な……」






一体、何が…………。だが間も無く、痛みは治まる。
今のは一体何だったのかと思いながら、静蘭は秀麗に視線を戻した。
予想通り、その瞳からは、涙が止め度目無く流れ落ちていた。
顔には、絶望の色が色濃く滲み出ていた。一番最初に髪飾りを踏みつけた時よりも更に酷く。
その様に、静蘭の中には、何時もの如く歓喜する思いが満ち溢れ―――――――
――――る事はなかった。それどころか、何とも言えない罪の意識が――罪悪感が満ちていく。
静蘭は、自分の中に満ち始めた予想外の気持ちに気が付き、愕然とした。




「あ……な……」





その思いを消したくて、静蘭は床の上に転がる髪飾りを何度も踏みつける。
しかし、罪悪感は消える所かどんどん濃くなっていき、加えて先ほど感じた鋭い痛みが
襲ってきた。余りの激痛に、静蘭は膝を突く。




「ぐぁっ……」










……てことを……








(……え…)





その声は――秀麗を傷つける度に自分に警告してきたもう一人の自分の声。
しかし、今、その声は深い悲しみに満ちていた。









……なぜ……どうして……









「なにを……」









どうして……だって…………これは……









何かが急速に思い出されて行く。
今の自分にとって忌まわしい、思い出したくない……………………静蘭は
掻き消す様に叫んだ。











「言うなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
















それは――血を吐く様な叫び
















けれど……
















無常にもその言葉は――









刻み込む様に静蘭の中に響き渡る――























私と………旦那様がお嬢様の誕生日に贈った…………思い出の品だと言うのに――
















静蘭の瞳が見開かれ、大いなる困惑と絶望に彩られていく。











―戻る――長編小説メニューへ――続く―