〜第二十九章〜宮城の異変〜








ズル……ズルズル―――――――






ゼェ……ゼェ……








荒い息もそこそこに、蒼麗は必死に足を進める。だが、自分よりも身長の高い
黄尚書を抱えている為、中々歩は進まない。力なく垂れ下がる腕がずれる。
それを一度立ち止まって改めて自らの肩にかけ直すと、再び足を進め始める。
蒼麗の肩に寄りかかる様にして引きずられる黄尚書に意識はない。それどころか、
その腹部には止血をしたにも関わらず、赤い血がチロチロと流れている。真っ赤に
染まった着衣の腹部の部分から、出血の激しさが物語られていた。



「はぁはぁ…………」





ガツッ!!





足元に転がる分厚い本に躓き、蒼麗の体が床に叩き付けられる。黄尚書を担いでいた為、
重力が増し一瞬その衝撃に息を呑むが、痛みを堪えて大きく息を吸い、そして吐く。
痛みが逃げたのを確認すると、蒼麗は再び起き上がった。




「もう……少し……もう少し……」




後、もう少しでこの惨劇の舞台となった府庫から逃れられる。
黎深とは未だに離れ離れだったが、今は探している余裕がない。
蒼麗は己の肩に担がれるようにして意識を失う黄尚書を見詰める。ほんの少しの油断から
距離を詰められ、可笑しくなった静蘭によって切りつけられた黄尚書。
それも、自分を庇って―――。蒼麗は自分のふがいなさと同時に、申し訳なさに嗚咽を漏らす。
幾ら驚いていたからといって、怪我をしていたからといって、あんなにも無防備に
なってしまうなんて……!!




「あと……すこし……」




蒼麗は目前にまで迫った府庫の出口に手を伸ばす。あの出口をくぐれば、なんとかなる。
蒼麗は心からそう信じていた。そう、外にさえ出れば……。蒼麗の手が出口にかかり、
力を振り絞って体を押し出す様に扉を開けた。まだ日の光のある時間。
眩しい陽光を浴びる筈だった――――











ワァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!








ドガ!!バキッ!!ガッシャァァァァァァァァァァァァァァァァン!!










ようやく逃れられたと笑顔になったのもつかの間。
目の前に広がる想像を絶する光景に、蒼麗の表情は凍りついた。
血の気が一気に引き、体がカタカタと震えだす。





「……そ……うそ………」





蒼麗は目を見開いた。







「何が――――起きているのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ?!」







悪鬼の形相をした――元は官吏や女官だったと思われる異形と化した者達が、
血に塗れた姿で悲鳴を上げる同僚達を刃物を手に襲う。そして建物を壊す。
あちこちから悲鳴が、血飛沫が上がり、煙や爆発音が響くその壮絶なまでの光景に、
蒼麗は絶叫したのだった。
















所々赤く染まった紙が舞う。




崩れた本棚が重なり、散らばる書物が海の様に広がる中――その人は居た。







心臓の鼓動がいっそう激しさを増す。その音をわずらわしく思いながら、黎深は己の衣服を
切り裂き、体中に負った切り傷を止血していく。傷はどれも浅かった。
それは、養い子が心の何処かで養い親を傷つけるのを躊躇ったからだろうか?
そうでなかったら、自分も――




「首の一つや二つなど……とうに落とされていたな」




黎深は、紅家当主である己を守ろうと奮闘し、養い子によって鮮やかなまでに首を落とされた
数人の影を見下ろした。綺麗な切断面を露にする遺体。そこから流れ出た血によって出来た
血溜まりの中に浮かぶ幾つもの首。その顔の殆どは影となってそう間もない者達。
長年仕えてくれた者達は居ない。もし、これが長年仕えてくれた者達であれば、
少しは心が痛んだのか如何か――黎深はそこまで思い、冷たく笑った。
ありえない。新参者だろうが、長年だろうが、自分は兄や姪、そして養い子など、
一部の者達を除けば他は如何でも良いと思っている。生き様が死のうが、如何でも
良いのだと。だから、影達が散っていく時も、何の感慨も沸かなかった。唯、道具が減る――
それだけだった。使い捨ての道具。当主となった自分に与えられた道具。




唯、それだけ――







「手駒が消えたか……」



今現在自分につく影は全て消えた。勿論、影はこれだけではない。
しかし、その殆どが紅家の方に現在ある。定期連絡の影すらも殺され、連絡が
行かなければ慌てて向こうから増員がやってくるだろう。しかし、それでも数日はかかる。
その間、自分は自分の身ひとつで事に立ち向かわなければならない。
普段ならば、如何でも良い事。自分に出来ぬ事はない。だが、それでも……




「全く……私にこれだけ走りまわさせるとはな」




傷は浅くても、少しずつ流れた血によって染まった衣服は紅家当主に相応しい赤い衣へと
変わっている。黎深は浅く早くなる呼吸を沈めながら、辺りの気配を探る。
近くに、絳攸の気配はない。まるで舞う様に持っている小刀を扱い、自分の前に立ち塞がる
者達を切り払っていく。その様は刹那の美さえ感じさせ、黎深でさえ思わず目を
奪われた程だ。一切の感情を消し、舞い踊る美しきこ殺戮者。
兄と同じ――




黎深の目がカッと見開かれる。




養い子があの兄と同じ?あの憎き先王と狸太師によって凶者として仕立てられ、
多くの者達の命を奪い、その手を血によって染めさせられた兄と――




「冗談じゃないっ!!」




冗談ではなかった。そして、養い子が……人の命を奪った事も……。
黎深はまぶたを閉じる。養い子は影達を惨殺した。その手で、命を奪った。手を血に染めた。
兄の様にならない為に、武術を教える事なくまっとうな道を歩ませる筈だった養い子。
それがせめてもの、自分の愛情だと……。しかし、そんな思いも全てが無と帰す。
明らかに可笑しくなっている絳攸に例えその気は無かったとしても、実際に相手を死に
貶めたのは事実。もし、元の絳攸に戻った時に、その手が血に染まっているのを
見たとしたら……影達の物言わぬ遺体を見たとしたら……。
黎深の瞼の裏に、狂う絳攸の姿が映りこむ。










隠さなくては









全てを









これまでと同じく、何の問題もなく生活を続ける為に









全ての罪は自分に――












「……そういえば、鳳珠達はどうなったんだろうか」




逸れてかなりの時が経つ。あの男が簡単に死ぬとは思わない。また、あの少女も。
数日前に初めてであった少女。渦巻き眼鏡に黒い髪を三つ編みにした、一見すると地味で
野暮ったくて何処にでもいる様な感じの平凡な少女。けれど――黎深はその眼鏡の奥、
瞳に煌く深遠なる知性の光を見た。この子はバカではない。
それどころか、滅多に見ない逸材だと悟った。それでいて――何処か秀麗に似ていた。
優しく、温かく、周りの者達に惜しみない愛情を注ぐ事の出来る強い心を持った姪と同じ光を
持つ存在。だからこそ……自分はすんなりと蒼麗を受け入れた。
本当なら疑っても可笑しくない。けれど、少女の言っている事は全て本当だと思った。
この少女ならば、無条件で兄の家に居候していても良いと思った。
そんな、この自分にさえそう思わせてしまう不思議な少女は、簡単に死ぬ筈がない。
大方、鳳珠と共に外に逃げている筈だ。ってか、逃げていなかったら叩き出す。





カタリと物音が鳴る。




黎深はゆっくりと瞼を開いていく。その瞳に、自分からそう離れていない場所に立つ
養い子の姿が映った。血に塗れた着衣。それは己の血ではなく、全て殺戮した相手のもの。
握られる小刀もまた、相手の血に濡れている。
感情のない顔。そして全ての光が消えた瞳が黎深を捉える。





「絳攸……」





誰にも聞き取れぬ小さな呟きが黎深の唇から漏れた。














ダンッ!!




城壁をそのままの勢いで飛び越え、地面へと着地する。そこは、宮殿の外れ。
周りに人の気配が無い事を確認し、黄葉は走り出す。
その足取りは凡そ老人のものとは思えぬほど早かった。




(霄のバカたれの気配が消えた……お前ほどの男に一体何が起きた?!)




何時もは憎らしげな口ばかり叩く黄葉も、この時ばかりは違った。
半半刻前に突如として消えた霄太師の気配。少しずつ消えるのではなく、
いきなりぶつっと消えた。余りにも不自然すぎる。それゆえ、黄葉は此処に来た。
だが……少し歩き、程なくして自分の認識が余りにも甘かった事を悟った。




「一体これは何なんじゃ……」




王城に近づくにつれ強くなってきていた邪気。
それは、城壁を乗り越え中に入ったばかりの時はまだそうでもなかった。
しかし……府庫に程近い場所に辿り着いた時、まるで此処からは別世界だとでも
言う様にその邪気は強さを増し、空間自体を歪めていた。あちこちに未だ乾ききらぬ血痕が
残り、建物は壊され、綺麗に整地された庭園も無残なまでに破戒されていた。
その凄惨な光景を彩る様に、官吏や女官、武官達があちこちに傷を負って呻いている。
ある者は放心したように座り込み、ある者は息も絶え絶えに地面に付し、ある者は
意識を失っている仲間に必死に呼びかけていた。何が何だか解からず狂った様に
絶叫し続ける者さえ居る。まさに、地獄絵図だった。流石の黄葉も立ち尽くすが、
直に我に返ると、走りより、呆然と放心する1人の官吏に話を聞く。




「一体何があったんじゃ!!」




しかし、中々その官吏は応えない。けれど黄葉は諦めずに問いかけ続ける。
すると、官吏はゆっくりと口を開いた。



「わ、私にも良く解らない。唯、空が急に曇ってきて、空気が重くなってきたと思ったら……
と、突然、一部の同僚や女官や武官達が奇声を上げ始めたんだ。そして見る見るうちに
容姿が変化していって、ば、化け物みたいな姿になって……そして仲間達を
襲い始めたんだっ!!」



化け物となった一部の者達は同僚や仲間だった者達を襲った。
手に手に刃物を持ち、また変化させた腕や爪、裂けた口から除く鋭い歯で。
皆、笑いながら人々を手にかけていった。
そして――




「そいつらに襲われた奴らの一部が、何故だか知らないが傷を受けてから
ほどなくして同じく化け物になったんだ!!」




全ての者達ではない。けれど、襲われた者達の一部は襲った者達と同じように化け物になった。



官吏は震えながら言った。まるで、受けた傷から何かの菌が入った様な――そう、
感染したかの様に。ある病気にかかったものに接触したことでその人も同じ病気になる。
まるで、そんな感じだった。その為、人々は更にパニックになった。
冷静なものが言う、「全ての者達が化け物になったわけではない。傷を受けたからといって
皆がそうなるわけじゃない」と言う声も無視して。既に殆どの者達から冷静さが失われていた。
皆が我先にと逃げ出す。しかし、化け物となった奴らは容赦なく襲い掛かった。



「や、奴らは楽しんでる!!完全に命を奪う事はない。死なない程度に傷を与え、
ゆっくりと絶命していくのを楽しんでいるんだ!!」



官吏が血走った血走った瞳を向けてくる。



「――もう一つ聞かせてくれ。それが始めに起きたのは何時のことじゃ」


「え?……と、かなり前だ」


「そうなのか?だが、王宮の門は閉まったままで、当然ながら誰一人として
外に逃げ出しては居ないが」



黄葉は思い出す。
王宮の入り口に相応しい頑丈な扉。それは、正面も裏口もその他全ての扉が一部の隙もなく
きちんと閉められていた。可笑しいのは、何時もは立っている門番が居なかった事。
そして、その閉められた扉は、近くに住む者達の話では今日一度も開かれていないとの
事だった。しかも、その者達の1人はこんな事も言っていた。




『なんか今日は可笑しいんだ。何時もは厨房に野菜を届ける為に一定の時間になると
門が開かれるのに、何度声をかけても開かれない。それに……王宮から人の気配が
しないんだ。まるで、誰も居ない感じで……』




政治の中心たる王宮に人が居ない。そんな事はありえない。
けれど、その者が嘘をついているとは思わなかった。
実際、自分も城壁を乗り越えるまで人の気配を中から感じなかった。





その王宮では……この様な異常事態が起こっているというのにっ!!





外の者達は誰一人としてその恐るべき異変に気づかなかったのだ。



「確かに最初は皆、王宮の外に逃げようとした。だが、門が開かなかったんだ!!
皆なんとかして開け様としたけど、どうしても開かなくて……そうこうしている内に、
奴らが襲ってきて、ばらばらになって逃げて……」




官吏はその時のことを思い出したのか、恐怖に震えた顔をする。
続いて、青白くなった唇から絶叫が漏れる。








これ以上の追及は無理だった。










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