〜第三十六章〜仙洞宮での対談〜







「ほれ、気付けの水じゃ」




「すまんな」






高雅楼の広間にて、一番最後に意識を取り戻した宋太傅は葉医師から水を受け取ると、
一気に飲み干した。





「ワシらが意識を失ってからどの位経った」





ガヤガヤと人の声や動き回る音を耳にしながら、宋太傅は言った。




「一刻も経っておらん。それよりも……体の具合はどうだ?」



「体?……ん?!」



「ど、どうした!!」







「彩雲国を軽く100周出来るほど爽快じゃ」








「…………………………行くなよ」




「ちっ!」




本気で行くつもりだったのかこのジジイ。流石は霄太師の親友。





「で、あの2人はどうした」




それが誰を指しているのかを即座に察した葉医師は思わず苦笑する。



「銀河と緑翠ならばとっくの昔に出て行った。因みに、あの2人がそなたらの傷を
治癒したようじゃ」



「なぬ?!」



「まあ、おまけのお礼のようなものじゃろう。御主等はきちんと約束を守ったようじゃから」


「ふむ、そうか……」



触れただけで凍り付く様な冷たさと厳しさを持った2人の青年。
けれど、今思えば、そんなに冷たくなかったのかもしれない。そもそも、力を貸すと
最終的に誓ったのも自分達だし……それに、葉医師曰くお礼におまけも付けてくれた。



「また会えるといいな……」


「まあ、会えるんじゃないか」



たぶん、会えると思う。葉医師の言葉に、宋太傅は疑問もなく頷いた。
そして、もう少し体を休めようと再び簡易式床に付こうとした時――宋太傅の脳裏に
それが思い出された。




「そ、そうじゃ、忘れてた!!あの女子は大丈夫ぶなのか?!」




「女子?……あぁ、奉明とかいう女官の事か。あの女子も無事じゃ。化け物と化していた
らしいが、今では元の姿に戻っておる。銀河が何かしたのじゃろう。まあ、まだ意識は
戻さないようじゃがな……白大将軍がずっとついておる」



葉医師はちらりと後方に視線をやる。そこでは、だいぶ早めに意識を取り戻した白大将軍が、
黒大将軍と共に眠り続ける奉明を見守っていた。時折苦しそうに呻く奉明に、実に
かいがいしく額の濡れ手拭を取り替える。



「長く化け物と化していた後遺症じゃろう。まあ、何かせいの付くもんでも
食べさせればもう少し違うと思うが……」


「食べもんはないのか?」


「ない。そもそも、此処は仙人の為に作られた建物じゃからな」



とはいえ、外に食べ物を探しに出る事も出来ない。この建物から一歩外に出れば
間違いなく化け物達の餌食となる。そんな化け物達の恐怖を骨の髄にまで味わった
部下達が、食べ物を得る為とはいえ、再び外に出るとは思えない。
そして……



「………その、葉医師」


「なんじゃ」


「わしらの他に、此処まで辿り着いた者達はいるか?その、おぬしと黄尚書以外に」




他の者達は無事なのか?その言葉に、葉医師は難しい顔をした。




「いるといえば……いるな。文官と武官、そして女官あわせて15,6人ほど」



自分が王宮に進入して直に状況を聞くべく捕まえた一人の官吏とその直傍に居た者達。
その殆どが半狂乱となっていたが、なんとか立たせて此処までつれてきた。
が、その後も騒いで仕方が無かったので、別室にして薬で眠らせていた。
今も眠っているだろう。




「それ以外には……他に此処には人はいないし、辿り着いた者達もおらん。
そもそも、此処は立ち入り禁止じゃからな……」




宋太傅と葉医師が押し黙った。
本当ならば武術の出来る自分達が探しに行って助け出してくれば良い。
けれど、先にも言ったように、化け物達の恐怖が染込んだ自分達が外に出る事は
容易ではない。ましてや、生存者がいるかも解らない外を闇雲に探し回るなんて
出来るはずがない。暫く沈黙が支配する。







「一体」



「ん?」



「一体王宮はどうなってしまったのじゃ。こんな事は初めてじゃ。人々が化け物と化し
同僚達を襲うなど」



奉明も銀河のお陰で元の姿に戻れなければ……きっと今も外で人々を襲っていた。



「何故……こんなことに……」



「聖宝のせいじゃ」



「なぬ?」



葉医師が発した聖宝と言う言葉に、宋太傅は眉を跳ね上げる。



「聖宝の一つ―『久音睡嵐』には確か使いようによっては人を化け物と化する能力がある。
その力が悪用されているのじゃろう。聞こえなかったか?甘い音色が。
それが『久音睡嵐』の音色だ」


「い、いや……わしは勝負に没頭しておって……って、聖宝が……悪用?……っ!!
まさか、この様な事態になったのは『彩の教団』がっ!!」



宋太傅の予想に、葉医師はゆっくりと頷いた。



「たぶん……そうじゃろう」


「じゃ、じゃが一体何故」


「可笑しいことではないじゃろう。『彩の教団』はこの国を滅ぼす事が目的。そして最も早く
滅ぼすには国の中枢機構を狙えば良い。つまり、此処だ」


「た、確かに……って、そなた、何故そんな事を知っておる?しかも、聖宝の事も……
というか、何故街医者でしかないそなたが此処に」



宋太傅の疑問も最もだった。しかし、葉医師はさらりと応えた。



「ん〜〜あ、まあな。霄の奴から色々と聞いていたんじゃ。それに、今此処に居るのは
霄の奴に元々呼ばれていてな」



前者は本当だが、後者は嘘だ。けれど、宋太傅は納得したらしい。



「しかし、『久音睡嵐』か……確か、その聖宝は王都にあるとされていた聖宝の一つ……
奪われたか」


「じゃろうな」



「『彩の教団』とやらも行動が素早い。ちっ!捜索に関わっていた軍部の奴らは
鍛えなおしじゃ!!」



「ほどほどにな。さてと……」



ゆっくりと後ろを振り返り、葉医師は呟いた。



「今度はこちらの女子と話をしなければな」



視線の向こうで、ゆっくりと瞼を開いていく奉明に葉医師は苦笑した。












「音が聞こえたのです。甘く、幻想的な音色が」



化け物の時とは打ってかわって、愛らしく綺麗な顔を怯えさせ、振るえた声で奉明は
その時の事を――話した。その音色が、聖宝であると言う事は、葉医師の説明で
この場に居る者達全員が理解していた。



「とても美しい音色でした。周りの方達もその音色が聞こえたらしく……皆立ち止まって
その音色に聞きほれていました。けれど……ほどなくして、1人の女官の方が頭痛を
訴え始めたんです。そしてそれを皮切りに、他の方達、そして私も頭痛を感じました。
痛みはどんどん増していき、ついには皆倒れてしまったのです。ですが、私は薄らとですが、
意識があり……此方に近づいてくる人に気がつきました」



「近づいてくる人?」



黄尚書が聞く。



「はい。簡素な衣を纏った少女です。しかし、その美貌は……王の妃といっても通用するほど
で……私はその方に助けを求めました。すると、その方は言ったのです。『本能のままに
開放しなさい』――と。その途端、体が燃える様に熱くなり、逆に意識が急速に遠くなって
いって……その後は……」




記憶がない、と奉明は告げた。
つまり、化け物となって人々を襲った後の記憶はないと言う事だった。




「近づいてくる人……か」



もしかしたら、いや、たぶんその女が聖宝を操ったものだろう。
となれば、その女は『彩の教団』の1人。奉明に顔の特徴などを聞くが……元々意識が
薄れていた為、唯美しいとしか解らないと言い、それ以上の情報は得られなかった。
けれど、今はそれで十分だ。



「化け物化を止める為には、聖宝の使用を止める必要がある。つまり、『久音睡嵐』の
持ち主であろうその女性から聖宝を奪えば、この状況は収まるはずじゃ」




葉医師の言葉に、皆が頷く。




「けれど、顔が解らないのであればその女性をどう探せばよいのやら」



黒大将軍の言葉に、葉医師は言った。



「ああ。そっちの方は蒼麗に任せれば良い」


「は?蒼麗?」


「ああ。おぬしも知らなかったな。蒼麗とは」



葉医師が蒼麗という少女について説明をしようとしたその時、奉明の力ない声が聞こえてくる。




「あの……」




「ん?どうした?」



葉医師は奉明を見遣る。まだまだ本調子とはいえない体。
元々華奢な為、今では折れそうなほどにか弱い印象を受ける。
少しでも体力を取り戻す為に今は休んでいて貰いたい。しかし、奉明は姿勢を正すと、
少しうつむいた後、しっかりとした口調で言った。




「あの……私は……私は一体、記憶のない間に何をしたんでしょう?」




誰も――奉明にその時の事を……化け物となった事やその間に何をしたかは
伝えていなかった。加えて、血がこびり付いた肌を水で洗い、服を着替えさせた。
けれど……本人も気がついているのだろう。長い間浴び続けた血の匂いは……そう簡単には
落ちない。自分の体から臭う血の臭いに、普段はそれとは無縁の少女も、心の底では
感づいているのだ。自分が、血の臭いが体にこびり付くような何かをしたのだと……。



誰も何も言えない中、奉明は縋り付く様に言った。





「……がいです……お願いです……私は……私は何を……」





瞳に涙が浮かぶ。本来は心優しい少女なのだろう。
悲痛なその姿に、奉明に傷つけられた者達も言葉を詰まらせる。
そもそも、奉明は己の意思で傷つけたのではなく、聖宝の力によって強引に
そう仕向けられたのだ。言ってみれば、奉明は被害者なのだ。





「奉明……お前は何も心配するな」





白大将軍が奉明の頭を昔の様に撫でようとする。
けれど、伸ばしたその手は寸での所で払い落とされた。





「どうして隠すの?!」





奉明は涙を流し叫んだ。
その迫力に、大人しい従兄妹の姿しか知らない白大将軍は呆然とした。




「奉明……」




「私は何かとんでもない事をしたんでしょう?!確かに記憶はないわ。
でも、でも体に染み付いた血の臭いは何?!こんな、強い血の匂い……私、
人を傷つけたんでしょう?!」



「奉明!!」


「私、人を……」




奉明は頬に手を当てる。すると、強い血の匂いが鼻についた。思わず吐き気がこみ上げ、
床に手をつき大きく咳き込む。背中を摩ろうとする白大将軍の手を払い、奉明は自分の両手を
見る。その時だった。白いその手が………
大量の鮮血に塗れていた



奉明の瞳が大きく見開かれる。







「ぁ、あ、
あ―――――――――――――――――!!










涙に濡れた頬を指で掻き毟り、顔を歪める。その瞳に宿る光は――絶望。



長い長い悲痛の入り混じる叫び声が響き渡る。
そして……動揺する白大将軍の隙をついて、その腰に刷いた短刀を鞘から抜く。







「奉明!!」







自らが行った事に対する罪の意識によって瞬間的に押しつぶされた少女は――
その激情のままに死を選ぶ。その重すぎる苦しみから逃れる為だけに。
首に押し付けた短刀が、音もなく横へと引かれようとする――














ドンッ!!














物々しい空気を切り裂くような大きな音に、反射的に全員の意識と視線が
音のした方へと向けられた。



「な、なんじゃ?」


奉明から注意をそらさずに、黄葉はぽつりと呟く。
が、ほどなくして、それは歓声へと変わる。







バンッ!!







音が鳴ったこの室の扉が勢いよく開かれていく。まさか、化け物?!





しかし、そこに現れたのは――





誰よりも早く黄葉がその名を呼んだ。






「蒼麗っ!!」





一刻+半ぶりの再会だった。














時は少し戻る。





「ぜぇぜぇ……」





黎深を肩に担ぎ、蒼麗は必死に足を進めた。








重い――(泣)








未熟な少女の力では、成熟した男性の体はとても重かった。黄尚書の時もそうだったが、
蒼麗の体力はかなりの早さで削られていった。




「だ、駄目……このままだったらマジで行き倒れそう……」




蒼麗の脳裏に本気で行き倒れている自分の姿が浮かぶ――――やばい、そんなの嫌だ!!




「冗談じゃないっ!!絶対にイや!!」



本気で絶叫し、蒼麗はせかせかと足を動かす。
こんなアホな事を考えている間にも足を動かしてどうにか”目的地”に着かなければ。



「それにしても……高雅楼は遠いな……」




この宮殿内で唯一安全と思われる場所であり、この国の者達にとって畏怖と敬意を
一心に集める彩八仙の為に縹家によって建てられた宮――仙洞宮。
別名、風雅の高楼とも呼ばれるそこは、神聖な空気に満ち、化け物達が決して
近づく事の出来ない聖域。そして――そここそが蒼麗の”目的地”でもあった。



また、安全な場所に行くと言って別れた黄葉もきっとそこに居る筈。



でも――



「あそこは嫌いなんだよね」


蒼麗は誰も居ない事を良いことに、ぽつりと本音を呟いた。
あの一族に作られ、あの一族の気配を色濃く残すその場所は、蒼麗にとっては
余り長いしたくない場所。何故なら、蒼麗はあの一族が大嫌いだったからだ。
といっても、あの一族の全てが嫌いなのではなく、とある考えを持つ一部の者達が
大大大大大大大大大っっっっっっっっっっっっっっっ嫌いなだけである。
これは、宇宙一のお人よし屋さんという称号を持つ蒼麗にとっては珍しい事でもあった。




「ってボヤいていても何も始まらないよね……とにかくなんとしてでも辿り着かなきゃ」



そうして肩に担ぐ黎深を見る。
止血をし、出来る限りの手当てを行ったが、消耗した体力を戻す事は出来ない。
一刻も早く安全な場所で休ませなければ。蒼麗は決意を胸に、視線を外すと、
ゆっくりと前を見詰める。最早見る影もなく崩れ落ちた宮殿の回廊。
その遥か向こうに仙洞宮がある。




「さあ、行きましょう」




蒼麗は更に歩くスピードを上げた。その早さは凡そ大人1人を背負っているとは思えない速さ。
けれど誰も見咎めるものもいない為、スムーズに進んでいく。




そしてとうとう後少しで仙洞宮という地点に辿り着いた。






「はぁはぁ……後少し」



頑張りすぎたせいで余計に酷くなった荒い呼吸。
それを立ち止まって深呼吸する事で直そうとする。一回、二回、三回――大きく息を
吸って吐いて、なんとか荒かった呼吸が元に戻っていく。
また、ようやく全貌を現した――一見して質素な印象ながらも、よくよく見れば
相変わらず雄大で歴史の流れを感じさせる佇まいの仙洞宮の姿を認め、顔を綻ばせた。



「黎深様、もう少しですから」



未だに意識が戻らない黎深に言葉をかけると、再び足を進め始めた。





「もう少し、あと少し」




そしてその手が高雅楼入り口の扉にかかった時だった。










ギャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!









凄まじい咆哮。化け物か?蒼麗は黎深を地面に降ろし、風雅刀を構える。
そして、風祢を呼び出した。ふわりと風祢が姿を形作る。今度は細部にまで完璧に
人間へと変化した人化の姿をとる風祢。どうやら、羅雁との対峙の際に受けた
精神的ダメージは回復したらしい。



「風祢さんっ!!」



風祢が頷く。それと同時に、蒼麗がきつい視線を向けた場所――数メートルも離れていない
茂みから何かが転がり出てくる。化け物――――。風祢が力を発動させる。
しかし、それは蒼麗の制止に妨げられた。




「まって!!あれはっ」




蒼麗は風祢を押し留めると、今転がり出てきたそれらにゆっくりと視線を合わせた。








「っ……ま、待って下さい…私……達は化け物じゃ……」






あちこちに傷を負い、そう訴えるのは――



















仙洞宮の奥深くに位置する部屋。


蒼麗が彼らを抱えて、その入り口たる扉へとタックルをかます――






「蒼麗っ!!」






歓喜の声を上げる黄葉に蒼麗は笑顔で応える。






「蒼麗。黎深様を初め、景侍郎様、欧陽侍郎様、管尚書様を途中保護して只今戻りました!!」








蒼麗の肩と手には、しっかりと彼らの存在があったのだった。











―戻る――長編小説メニューへ――続く―