〜第六十一章〜有事に大切なのは……〜





ガツッ!!



「おわっ!!」



後一歩。
それで屋根の上に体全部を上げられる筈だったのに、一瞬の油断から窪みに引っ掛けた足が
滑って体がずり落ちかける。

当然ながらこのままではまた地面に逆戻り。


必死に屋根の端にすがり付こうとバタバタと手を振り回す蒼麗だったが、それも空しく屋根に
引っかかっていた手が離れる。そのまま体が宙に投げ出され、一瞬体が浮かぶ感覚にとらわれる。




落ちるっ!!





先程までとは違い、それは確信。しかもこの体勢からでは上手な受身が取れない。
蒼麗は衝撃を覚悟した。




が、最後まで諦める事無く伸ばしていた自分の手を何かが強く掴むのを感じるや否や、
ガクンっという大きな衝撃を最後に落下は止まった。



「馬鹿っ!!気をつけろっ」


顔を上げれば、屋根の端には先に屋根に上って進んでいた筈の霄太師が厳しい顔をしながら立っていた。
いや、唯立っているのではなく、自分の伸ばした手をしっかりと握り締めてくれていた。


きっと自分が落ちかけたのを見て慌てて戻ってきてくれたのだろう。


蒼麗はお礼を言おうと口を開いた。



「ありが――」



グイっ!!



とう――と、最後までお礼を言い切る前に体が屋根の上に引き上げられる。





「……えへへへへ」



「えへへへへ、じゃないっつうのっ!!高楼に比べればマシだとはいえ、この建物の屋根から地上までの
高さは3階建ての建物と同じ位なんだぞ?!下手な落ち方をすれば確実にアウトじゃわいっ!!」



本気で怒る霄太師に、蒼麗はポリポリと頭をかいた。


確かに霄太師の言うとおりだ。あのまま落ちていたら後頭部と腰の強打は免れなかっただろう。
元々人間よりも遥かに丈夫で体力もあるが、だからと言って無傷ではいられない筈だ。
絶対にその痛みと衝撃で暫く動けなくなる。


蒼麗は肝にしっかりと命じつつ、ちらりと霄太師を見た。怒りの中にも、はっきりとした心配の文字が見て取れる。


そういえば昔から心配性だったっけ……。


幼い頃は、好奇心のままにあちこち行きまくっていた自分を一番怒り、影ではとても心配してくれていたのは
他でもない霄太師である。蒼麗は素直に謝罪した。


「ごめんなさい、次はもっと気をつけます」


すると、霄太師はフンッと鼻を鳴らしてソッポを向いた。


「解かればいいんじゃ。解かれば――――まあ、おぬしの気持ちも分らんでもないからな」


黎深の夢と同調し、切れてしまってから既に一刻ほどの時間が経過している。



それだけならばまだマシだっただろう。



だが、自分達は感じ取ってしまった。



今から半刻前に、その二つの気配が相対してしまった事を――












一転の曇りもない深く美しい深紅








その色が誰よりも似合い、また紅の名を頂くあの直系の二人が同じ場に会してしまった事を









邪気さえ震わせる程の強い衝撃となって周囲に散らばったその余波を感じ取ってしまった。








即座に思ったのは、黎深の死






あの最強と謳われし黒狼に、幾ら天つ才とはいえ勝つ事はまず無理だろう




邵可はその才のどれをとっても黎深の遥か上を行くのだから





しかも、今は彼は正気ではない。
蒼麗から聞いた説明と劉輝が残した日記によれば、その頭に響いて来た何者かの『声』に
よって、その意思と意識を奪われてしまっている。




普段ならば決してやら無い事でも今の彼ならば微塵も躊躇わずに行うだろう。







最愛の弟を殺すという事さえも






だが、そんな予想を脳裏に浮かべた霄太師に、蒼麗は大丈夫だと言った。





大丈夫





自分達が行くまで位ならばきっと彼は持ちこたえてくれると





黎深の危機を知り、蒼麗は覚悟を決めた。
本来何を置いても行うべきだった『久遠睡嵐』を持つ存在の元にいき、術を止めるという役目も
放り出してまでも黎深を救う事を。



馬鹿だと思った。それは自分に任せてとっとと術を止めて来いと怒鳴った。




だが、蒼麗は言った。




約束したのだと



絶対に助けると




きっと彼は待っている




彼を助けたい





勿論、黎深を助けた後にはすぐに術を止めに行くと蒼麗は真剣な眼差しで言い切った。



そして自分は――その穢れない純粋な光を宿す眼差しに思わず言葉を無くした。



それに畳み掛けるように蒼麗は更に言い募った。



自分がやるべき事は、術を止める事
、そして絳攸達を探し出す事



今、黎深は邵可と相対している。今まで分らなかった彼らの一人の居場所が分っているのだ。
そして、邵可も自分が探すべき相手。



『聖宝』の力を止めなければならない。



でも、今この時点では自分は黎深の方を優先する。




それは今まで自分が培ってきた勘。




それが必死に囁いている。




黎深と約束したからだけではない。





早く、早く黎深の元に辿り着けと自分の中のそれが叫ぶ。






そして気づけば霄太師を半ば引きずる様に走っていた。









だが、それが同時に蒼麗の中の何時もの冷静さを欠かせていたのは否定出来ない事実であろう。



そしてそれは今、蒼麗自身に危機を招いてしまった。






有事の際に事を無事に収め、死地からいかに無事に生還できるかはいかに本人が冷静かにかかっている。
例えどんなに優秀な者であっても、周囲の状況に振り回されて冷静さを欠いてしまえば全くの無力となってしまう。




だから、冷静でいなければならない。




常に冷静に物事を見聞きし、考え判断し、実行出来ればかなりの確率でどんな危機的状況に陥っても
事態を好転、またはそれ以上悪化させずにすむはずだ。




大切なのは、どんな時でも冷静でいられる事。
その上で、高い判断力や実行力、洞察力、そして幅広い知識と決めた事を実行出来るだけの
力が必要なのである。


本人は否定しているが、蒼麗には既に判断力等の部類は非常に高く、また知識もかなりのものを
有していた。また、力なしであるがそれに変わる道具類を巧みに使い、それこそ周囲に負けないほどの
功績を残している。その優しすぎる性格とおっちょこちょいな部分は心配だが、それでもそれらは蒼麗自身に
プラスに働いてもマイナスになる事は少ないはずだ。





周囲の幼馴染達に比べて何をやっても駄目。学業も運動も平均以下、歌舞音曲などの芸術面を始め、
やる事なす事全てが駄目駄目。また、双子の妹や二歳下の弟、幼馴染達のように人を従えるカリスマ性や
気品も余り表立つ事もなく、圧倒的な魅力や色香もない。寧ろ、地味で影が薄く、更にはおっちょこちょいで
超が着くほどのドジ。更には間抜けで鈍間な上、何処となく冴えない感じが物凄く漂いまくる始末。





けれど、見るものが見れば気づくだろう。





周囲からは落ちこぼれの無能と思われても、決して諦めないその強さに。
此処が駄目だと指摘されれば、徹夜で練習し、どんなに罵倒されても涙を堪えて必死に食らいついて努力していく。
はっきり言って努力や根性の面だけでいえば、それこそ誰にも負けはしないだろう。



唯、それでも相変わらず蒼麗の能力は妹弟や幼馴染達に比べれば格段に低い。足元にさえ及ばない。





けれど、それでも蒼麗は諦めない。






何時かきっと自分の中に眠る才能を開花させるのだと。




誰よりも強く優しくなるのだと。





だってそれが約束だから。






誰よりも強くなって、必ずや傍に行く。






他の誰もが自分を守らずにすむように。





他の誰もがあの子だけを守る事に意識を向け力をふるえるように。





そして自分も共に戦えるように。









そんな願いを忘れずに持ち続け、努力し続ける蒼麗は実は誰よりも強い存在かもしれない。








そして――何時かは誰よりも強くなるかもしれない。









けれど、例えどんなに才能を持っていたとしても、優秀だとしても、冷静さを失えば何の役にも立たない。




寧ろ、付け込まれて潰されるだけだ。








特に今のような危機的状況では、下手をすれば命さえ失う危険性がある。




黎深を助けるどころの話ではない。



勿論、蒼麗自身もそれに気づいていたのだろう。
霄太師の言葉に目を見開いた後、自分を恥じる様に顔を俯かせてしまった。
その後も、決して顔を上げようとはしない。




そんな蒼麗に、霄太師はゆっくりと口を開いた。



「いいか、蒼麗」



先程とは違い、どこか優しげで、それでいて厳しさを持った声に、蒼麗はようやく顔を上げた。



「どんなに危うい状況に陥っても決して冷静さだけは欠けさせるな。そうすれば事態の好転は
望めずとも、それ以上悪くなる事はない」



冷静さを失ったばかりに自滅して事態を悪くする事はない。



そう言う霄太師に、蒼麗再び目を見開いた。



だが、先程とは違い、その次に浮かんだのは



「――うん、そうだね」



大輪の花が咲きほころぶ様な笑顔。



ああ、これでもう大丈夫。



何処か力が入りすぎていたその幼い体からも、今や余分な力が抜け始めていた。


「さてと、行くか――先に向こう側に降り立ったあの馬親子もそろそろ待つのに痺れを切らす頃だしな」


と、その時。微かに馬の鳴き声が聞こえてくる。
どうやら霄太師の予想通り、何時まで経っても来ない二人に不安を覚えているのだろう。

霄太師は楽しそうに口の端を引き上げた。


「ふっ……言った先からだな」


「――みたいだね」


蒼麗も口元に手を当ててクスクスと笑った。


「と言う事で、急ぐぞ」


そう言うと、霄太師が自分に手を差し伸べてくる。それは、昔数え切れないほどしてくれた馴染み深い仕草。
皆の脚に追いつけず何時も転んでいた自分に、何時もこうして手を差し伸べてくれた。


そして――自分は



「うん!!」




昔と同じように伸ばされたその手をしっかりと握り締めた。
















そして二人は手を取り合い、屋根の上を疾走する。










あの真紅の名を継ぎし気高き当主の手助けをする為に










そして











あの人の血を継ぐ子供達を守る為に














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