〜第六十四章〜投入〜







強引に歪められたものには必ずひずみが出る。
それは、どんなものでも一緒だ。
本来の在り様を無視し、人の手によって強引にその流れを操作する事に対する代償ともいうべきそれ。





当然強引に自分の持つ運を極限にまで高められた黎深にも歪みが起きる筈だった。







そう――運が悪いというその時が。






しかし





「ほっ、はっ、ふんっ!」



黎深は今も尚軽やかに邵可の攻撃を避け切っていた。




「凄いな」




その様子を遠くから眺めながら羅雁は心底感心したように言い切った。
時間が経過すればするほど本来であればその動きは鈍くなっていくというのに、黎深はその逆。
息も絶え絶えという飛翔 とは違い、時間が経過するに連れその動きはより軽やかになってきた。



何で?



そう思ったのは言うまでもないだろう。



「鍛錬はせずとも、才はあったと言う事か……流石は伝説の黒狼の弟」



本来とは逆の状態――その身のこなしはスムーズになり、無駄な動きはどんどん減っていく。
やはり、腐ってもあの男の弟。


「惜しいな……仕込めば一流の殺し屋になれたものを」



邵可が聞けば全力で殺しにかかりそうな発言をさらりと口に出しながら、羅雁はクスクスと笑った。




だが――



それも、あと少しの事である。
羅雁は背後に現れた気配に更に笑みを濃くした。



ようやく来たか



「遅かったな?もう少しで出番に間に合わなくなっていたぞ」



羅雁はくるりと後ろを振り返り、その人物に笑いかけた。



赤い、紅い衣を纏ったその人物



「今度は――もっと早くに戻って来いよ?幾ら楽しくてもな」




その言葉に反応するかのように煌く手中の短刀。
今や本来の銀色が分らなくなるほどに血にぬれたそれが、その人物が今まで何をしていたのかを物語っていた。



また、その身にまとう衣を染め上げるその色が





彼の凶行を現実のものとする






さあ、あの男は一体どういう反応をするのかな?






さあ、もうすぐ開幕だ。







楽しい楽しい殺し合いが
















「蒼麗、急げっ!」



前を走る霄太師が急かす様に叫ぶ。
その声に導かれるように、蒼麗は更に速度を上げた。


息が上手く吸えない。



速度を上げる事によって生じる弊害。何とか整ってきた呼吸が再び乱れ、酸素の運搬が追いつかなくなる。
勢いよく振り上げる手足は更に酷使され、痛みとだるさを訴える。わき腹も痛かった。
また、走る事によって前方から向かってくる風の流れは更に速度を増して自分の体にぶつかっていく。



苦しい、辛い、きつい



散々走り回って、体は限界に近かった。


自分の思いとは裏腹に、休憩を求めてくる。走るのを止めようとする。



それが、とても辛くて悲しかった。そして自分自身が情けなかった。


もしこれが、自分の双子の妹や2歳下の弟、幼馴染達であればこの位でへばる事なんてなかったというのに!



蒼麗は、彼らを心底羨ましく思った。



そう――
彼らの体力には凄まじいものがあった。
走れば数千mを休憩なしに涼しい顔で走り、1ヶ月連続で徹夜してもなんのその。
数千m泳ぐ事もたやすく、断崖絶壁もあっという間に上り下りし、その跳躍力も目を見張るものがあった。



そんな身体能力や基礎体力に優れた妹弟や幼馴染達。
しかし、自分にはそこまでの体力も身体能力もない。



ましてや、瓦10000枚を一撃で叩き壊して無傷でなんていられる事もなかった。



「くっ!せめて妹のように10時間全力疾走した後に、素手でクマとライオンを百頭ばかり仕留め、
100km泳ぎまくり、自転車で500km走った後、1000人相手の模擬試合に参加して5秒で相手を叩きのめし、
止めとばかりに瓦一万枚とコンクリートの壁を百万ほど壊しても息一つ切らさず笑顔で完璧なお嬢様っぷりを
披露し切れる位の体力がほしいっ!」



「化けもんだろそれはっ!」



何だその無尽蔵な体力馬鹿はっ!俺でさえ勝てんわっ!



しかし、そんな霄太師の叫びに蒼麗がクワッと目を見開いた。


「私の妹になんて事をっ!化けもんなんてとんでもないっ!私の妹は容姿端麗、文武両道、頭脳明晰、博識家で
聡明、打てば響くような機知を併せ持ち、また品位を極め、絶対的なカリスマ性と圧倒的な威圧感と高貴さを
兼ね揃えた華やかで清純可憐、神秘的で神々しいばかりの超絶美少女ですっ!それはもう、人々の理想の
深層のお姫様なんですっ!」


「深層の姫がクマなんか仕留めるかっ!」


「仕留められない姫がいますかっ!私の妹はスナイパー大会で連続100回優勝してるんです!!」



その瞬間、霄太師は蒼麗が遠く感じた。
彼女と自分の間には織姫と彦星を引き裂いた天の川さえ遠く及ばない深い深い溝がある。
それこそ、マリアナ海溝ほどの深さと、冥王星から太陽までの距離を持った深い深い深すぎる溝が。





霄ちゃ〜〜ん






脳裏に浮かんでは消えていく幼い頃の蒼麗






時間の流れはなんと残酷な事か





霄太師は心の中で滂沱の涙を流した。




「くっ!帰ったら今まで以上に鍛錬を頑張らなきゃっ!」




やめて今のままで居て



霄太師のそんな心の叫びは蒼麗には聞こえない。



以心伝心の難しさである。






と、そんな事をしている内に、どうやら距離を縮めたらしい。
黎深達の気配が強くなってきた。




空間がゆがみ、本来の距離以上の距離を走る事になった蒼麗達にも、ようやくゴールが見えた。





後、少し










しかし、彼女達は知らない。そのすぐ後に起きる悪夢を。


















ガシっ!



「うわぁっ!」



隙を見て繰り出された黎深のけりが、道化師を襲う。
そのまま、彼の体は後ろへと吹っ飛ばされていった。



「ガハっ」



体を地面に打ちつけ、道化師は大きく咳き込んだ。




こ、こんな……




「ふんっ!ざまあみろっ!!」




黎深は何時もの居丈高な様子で叫んだ。



ようやく、このムカツク相手に一矢報いる事ができた。
その嬉しさはいくばかりか。



だが、これで終わりはしない。ボコボコにし、何としてでもこいつから兄を取り戻すのだ。





「さあ、兄上を返してもらおうか」




それは、地獄の底から這いずり上がってくるかの如き禍々しさを含む声だった。
紅家の鬼畜当主の片鱗が垣間見え、上半身をようやく起こした道化師さえ恐怖に貶めた。



少しでも動けば殺される




道化師は必死に邵可を呼んだ。
だが、その邵可も黎深の殺気に戸惑っているのか微動だにしなかった。



くそっ!完全に支配しきれていないのかっ!



道化師は、邵可を支配している人物に悪態をついた。


玩具は玩具だからこそ価値がある。それが自分の意思を持つ、または主人の言う事を聞かなければその意味はない。


そんな自分の玩具である邵可の存在意義は、自分の思いどおりに動いて自分を楽しませること。
それ以外にこの男に生きる価値はない。




そう――自分の思うとおりに動かなければならないのだ。






道化師は心の中で強く念じた。






殺せ





殺してしまえ






黎深を殺せっ!










強い強い殺意






それに応じるように、邵可が再び動き始める。
しかし、その動きは先程までとは違い、まるで油を差し忘れた機械人形の如き。
それがまた、道化師を苛立たせる。




「さあ、早く兄上を解放するんだ」




そうこうしている間にも、どんどん近づいてくる黎深。




おかしい



最初は自分の方が優勢だったというのに





なのに、どうして今自分はこうして地べたに這いずっていなければならないのか?





それもこれも全て邵可のせいだ





全部、全部





自分達を不幸にしたこの男のせいなのだ






道化師は激しく歯軋りした。







自分達は不幸になった




邵可のせいで




ならば、邵可も不幸にならなければならない





その手で、愛するもの全てを殺しつくす事でっ!!





道化師は、更に邵可に強く命じる。




殺せ、殺せっ!





しかし、まだ邵可の動きは良くならない。






この、役立たずがっ!!







道化師の怒りはそのメータを吹っ切る。







『手古摺っている様だな?』







「っ?!」




脳裏に響くその声に、道化師は一瞬にして怒りが飛んだ。
戻ってくる冷静な判断力。




道化師は脳裏に響く声の主に応えた。



何のようだよ



『いや、少しばかり手古摺っているように見えたもんでな』




煩いっ!余計なお世話だ



すると、声は楽しそうに笑った




『そういうな。お前にプレゼントを持ってきた。これを使うといい』




プレゼント?



『ああ、とびっきりのプレゼントだ』



その内容を聞き、道化師は目を見開く。が、すぐにニヤリと笑う。



ああ、それはなんて楽しい




最高の光景が見れるだろう




ありがとう、羅雁



道化師は自分にそれを与えてくれる相手に礼を言った。




『素直なのはいい事だ。たっぷりと楽しめ』



「一体どうしたっ!さっさと兄上を解放しろっ!」



様子がおかしい道化師に、黎深が叫ぶ。
何だか、嫌な予感がする。その前に、早く兄上を



「煩いよ、生きる価値もないクズが」




響く、冷たい声。道化師の口元がニタリと大きくゆがむ。


「なんだと?」



「ふふ、ははっ!お前なんて死んでしまえばいいんだっ!沢山苦しんでっ!そうすればボクの玩具は
もっともっと苦しむんだからっ!」




道化師の叫びが当たりに響き渡る。







それが、合図だった













「さあ、行け――」



悪夢が投入される












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